公開セミネール記録
「セミネール断章」
海馬症候群
hippocampus syndrome


2014年9月


講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2014年9月13日講義より


講義の流れ〜第9回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜


第9講:「フロイト=ラカン思想の限界と従来型精神分析の破綻」



あらゆる思想はテンポラリー→あらゆる思想はプレテクスト→ラカンのセミネール→ファルス享楽の賜物→思想と身近な動機→持続性と父親との同一化→喪の仕事としての精神分析→フロイトとシニフィアン→ラカン思想とフロイト→フロイト全集とサルトル全集→ベルグソンと小林秀雄→カール・ヤスパース→勉強会と読書会→思い込みとしての現象学→イリュージョンとしての現象学→太宰治とダーザイン→嘘をつけるという能力→嘘の構築→嘘をつけない人たち→隠されている真理→顕われ続けている真理→ラカンの『テレヴィジオン』について→真理に触れること→フィクションの基本構造→夢の臍とブラックホール→特異点で起こっていること→情報は保持されている→情報の空間化→二次平面としての情報→イリュージョンの入れ子構造→反復とホログラフィック化→CP対称性の破れ→脳科学の問題→遠距離で精神分析はできない→遠距離では変化が起こらない→身体が近い場所にあること→身体と量子状態→リュムケとスキゾフレニア→プレコックス・ゲフュールについて→中井久夫とプレコックス・ゲフュール→中井久夫と精神分析の陥穽→David Lewis と Plurality of Worlds → transworld identity と量子もつれ→言語に限定すること→構造主義と牛刀→ソシュールと二重の恣意性→量子状態とアナグラム→アナグラムと固有名→クリプキと洗礼とレフェラン→晩年のラカンと命名 nomination→ジョイスと症状→境域と補綴→第4の輪という発想→3つのnomination→nominationを行なうということ→ピエール・スーリの数学的説明→逆転移の問題→遠近法を失うこと→informationと量子状態→DSMーⅣと認定医制度→サンブランと日本→二次元情報→ホロフラフとホログラム→身体と量子状態→量子状態と精神分析→海馬と精神症状→オールフラットと精神分析→オールフラットと分析家→オールフラットという水準



ホログラフとホログラム



 わたしたちの脳は、それ自体二次元情報であるホログラムが時空化されたホログラフとしての宇宙の一部です。そのホログラフのなかで、さらに入れ子構造のように、二次元情報が三次元化されている。それが脳機能とか脳の量子状態と呼ばれるものです。
 その機能をコントロールしている中枢こそが実は海馬なのだ、というふうにわたしは予てから考えてきました。海馬の特殊性は、アウトプットが再びインプットへ戻ってくるようなサーキットを構成しているということにあります。
 知覚システムによって差異化された情報は、嗅内皮質 entorhinal cortex へ運ばれ、歯状回 Dentate gyrus を経て海馬 Hippocampus に入力されます。海馬の内部は組織学的にCA3、CA2、CA1に区分されており、情報はアンモン角 Cornet d'Ammon(CAと略す)と呼ばれている構造のなかをCA3、CA2、CA1の順で通過し、再び嗅内皮質へと戻って来ます。そこには何度でも回転できる一つの閉じたサーキットが形成されています。と同時に、嗅内皮質は新皮質と緊密な情報交換もおこなっています。つまり海馬は、情報を循環させながら、同時に前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉と情報のキャッチボールを行なっているわけです。誤解を恐れずに喩えるなら、新皮質とは過剰な情報を記録するための外付けハードディスクのようなものなのです。

身体と量子状態



 海馬は左右に一対ありますが、相互の連絡は嗅内皮質を介しておこなわれています。重要なのは、記憶(情報)が強化されるためには、あるいは記憶が過去の記憶と照合されたり、組み合わされたり、積分されたり、微分されたり、つまり一定の演算を被るためには、記憶相互の照合が目まぐるしく生じる必要があります。つまり特定の回路のなかを何度も反復回転する必要があるのです。そこで中心的な役割、コンピュータに喩えていうなら中央演算装置(CPU)の役割を果たしているのが海馬というわけなのです。このことは非常に重要です。
 ご存じのように、海馬は大脳辺縁系 limbic system の一部を構成していますが、その周辺には情動の制御に関与する部分があります。扁桃核 amygdala はその代表的なものです。わたしが現行の精神分析について破綻とか限界という言葉を用いる時に念頭にあるのは、そのような医学的、科学的な知見を除外して進むことは最早出来ないし、おこなってはいけないということなのです。
 そうすると小賢しい思想家は「そうすると、あなたは心身二元論者というわけですね」などと的外れなことを言ってきたりします。残念ながらそこには科学的な思考法が欠如しています。わたしたちが精神的なものと信じている事象も含めたホログラフとしての宇宙の出現様式を解明してくれるのは、もはや意味づけに依拠する哲学などではなく、情報とその演算処理に着目した数理科学 mathematical sciences の英知なのです。したがって、いわゆる精神現象を含めた時空の実現様式を明らかにするためには、身体がつくり出しているホログラフの形式についての研究が必須であり、だからこそ身体の量子状態についての更なる研究が必要になってくるわけです。つまり、精神分析に未来があるとすれば、必然的にホログラフとしての身体や精神を扱わないと駄目なのです。実際,身体の量子状態を画像化する医療機器テクノロジーも随分進んできていますね。

量子状態と精神分析



 例えば医療の検査で使われているMRIも量子状態を画像化する装置と考えることができます。ですからMRIの画像診断において、海馬を中心とした大脳辺縁系の機能的な解明がもう少し進んでくれば、原因が未だ特定できていないいわゆる内因性精神病、原因不明の精神病と見做されている人たちの海馬を含む回路状の情報処理システムの何らかの不具合が発見される可能性がとても高いとわたしは考えています。ですからそういう意味では、わたしは純粋な心理主義者でもないし、従来型の精神分析礼賛者でもありません。むしろ一人の科学者として、海馬というオーガニックなシステムがつくり出している精神症状という時空化された部分との関係性を、ホログラムという平面情報がホログラフという時空化された構造へと変換されるホログラフィックなプロセスとして考えつつ思考を進めているというわけです。
 ですから、そういう意味では、従来型の精神分析とも違うし、ラカン派とも違う。確かにラカンの考え方からは多くのヒントはもらいましたが、その先に進んでゆくには古すぎる。何でしょう。愛する彼女と一緒にここまで旅して来たけれど、ここから先は危険だからあなたはここで待っていなさい、ここから先はわたし一人で行ってくるから、みたいな感じでしょうか(笑)。

海馬と精神症状



 ですから、列車の窓から振り返ると、ラカンが駅のホームに立って、こっちに向かって手を振っているわけです。「わたしはここまで。後は任せたぞ」みたいな(笑)。しかしながら、この先はいわば前人未踏の秘境なので何があるかわからない、完全にわたしの言っていることが間違っている可能性もあります。実際の所はわからないのですが、わたしを動かしているのは「とにかくその先に行ってみる」ということなのです。かなり前から海馬とスキゾフレニアとの関係について触れてきました。例えば、理研が発表する以前に、わたしはCA2の機能がスキゾフレニアの妄想形成に関与しているのではないかという話をしました。皆さんのなかに理研の関係者がいるのではないかと疑うくらいです(笑)。
 わたしは、スキゾフレニアの諸症状発現の核になっているのは海馬であると考えています。これは間違いないと思います。さらには、アスペルガー症候群やサヴァン症候群を含めた自閉症群、分裂精神病 psychose schizophrénique、躁鬱精神病 psychose maniaco-dépressive 、ある種のパーソナリティの障害であると見做されている疾患群、人格障害や発達障害と診断されている症状群も、その根底には海馬の機能不全とその機能不全を補填しようとする脳の過剰な修復機能の発現が基礎にあると考えています。

オールフラットと精神分析



 オールフラットと最後に言いましたが、このオールフラットという一つのメンタルなポジションこそが分析家としての理想的なポジションなのです。一般に、従来型の精神分析をやっている分析家たちにしてみれば「精神分析をする」というのはとても真面目な話なのです。ある意味、しかめっ面で受けなければならない。わたしのなかに何があるのだろうか、とか、わたしを突き動かしているのはいかなる欲望なのか、等々、かなり堅苦しく、眉間に皺が寄ってしまうような水準の話のように思ってしまいますが、実はそうじゃない。精神分析は、朗らかで、ニコニコしていて、自由で、そして明るく振る舞うことができる。
 それでいてメンタルなポジションはオールフラット。分け隔てもない。質の違いもない。全部がフラット、意味や価値や質などの余計なものが剥ぎ取られた二次元情報としての世界が見えている。実は、先ほどから皆さんは、わたしの目には二次元情報として映っています。立体じゃない。わたしに見えている景色は、形式であり、インフォメーションなのです。ですから心的なポジションは極めてクールです。例えばこの地球の上の生物だって最終的には膨張する太陽に飲み込まれて皆死んでしまう。そうすると、生命が誕生し単細胞生物から気の遠くなるような進化の歴史を経て今日に至ったその過程自体が初めからなかったのと同じことになってしまう。ですから雑事にとらわれている人を見ると、意味や価値にうまく振り回されてしまっている、と思うわけです。

オールフラットと分析家



 わたしたちが住まう世界は、目眩く音と光、様々な意味や価値によって無限のバリエーションを持った時空として立ち現れているように見えます。そしてわたしたちは、その音と光の効果のなかに姿を現し、意味と価値に振り回されながら、喜怒哀楽の人生を送っています。もしそれらが、すべて幻影だとしたらどうでしょう。わたしたちが生きている根源的な欲動や欲望の次元が、実は二次元情報が三次元化(ホログラフィック化)されるときに生じる付随的な幻影だとしたら、わたしたちは過度に欲動や欲望に振り回されることもなくなるのかもしれません。その時、分析家の役割は、すでに時空化された宇宙やその産物としての欲動や欲望に惑わされることなく、時空化された様々な「現実」を、二次元情報へと還元し、意味や価値ではなく、その形式や演算様式に着目することで、数多くのバリエーションがあるかのように見える精神疾患も、実は非常にシンプルな情報の組み換えや書き換えならびに時空化の変換様式のバリエーションとして捉えることになるのかもしれません。そしてそれがわたしが従来から提唱している「オールフラット」な境地に通じているのです。
 具体的な治療現場においては、分析家がオールフラットのポジションを保持していると、クライアントもまた次第にオールフラットな心的ポジションを獲得してくるのです。わたしがオールフラットの境地を獲得した大自然のポジションに、わたし自身が立つことができれば、それが理想的な分析家のポジションになることができるのです。その時、従来型の精神分析の思考法、たとえばリビドーの固着を解いたり、抑圧されたものを開放したりという発想や、言葉の連鎖を辿って症状の源に辿り着く、というような古典的な思考法からは開放されます。
 つまり、人を喜ばせたり、悲しませたりしている意味や価値や感情などは、二次元情報に還元された瞬間に消えてなくなります。それによって意味や価値に振り回されることもなくなるし、欲動や欲望もなくなる。情動や喜怒哀楽や幻覚妄想などの精神症状も、実はホログラフィック化された時に生じる付随的な産物であることがわかります。

オールフラットという水準



 ですから精神分析が進行してくるにつれて、クライエントもまたオールフラットな状態に近づいてくる。表現しづらいですが、太平洋のように、平和な、フラットな水準で、意味や価値に振り回されず、太平洋のなかであらゆる価値や意味が相対化されて、平和に均等に漂っているというか、そういう心的な水準に到達します。
 そして、この水準にいったん到達すると、非常に興味深いことができるようになります。それはフラットな状態とノンフラットな状態を意図的に切り替えることが可能になるのです。たとえば、デジタルカメラで写真を撮りますね。そのカラー画像を、ボタンひとつで白黒画像に変換することができますね。あれは色情報を消しているわけです。そして、またスイッチを切り替えれば色が戻る。
 その操作に似たことが、フラットな心的状態に対して可能になるのです。もし分析家が完全にクールになってしまったら、ある意味、生きる屍みたいになってしまいます(笑)。クール過ぎて、歩く冷蔵庫みたいになってしまうけれども(笑)、そうではなくて、スイッチによる切り替えができるということなのです。したがって、ちゃんと喜怒哀楽のなかで人間らしく生きることもできるし、誰かを愛することもできるし、自分のコンプレックスに身を任せることもできます。ただしスイッチをカチャッと入れた瞬間に白黒のオールフラットな世界にすることもできる。
 わたしの経験を振り返って、このようなスイッチ切り替えは可能だと断言しましょう。これは夢のなかで夢だと気がつくという現象と似ているところがあります。ひと言でいうなら、とても覚(冷)めている、ということです。ということで、今日はこんな感じで終わりにします。