セミネール断章 2014年7月12日講義より
講義の流れ〜第7回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜
第7講:「量子コンピュータと心的構造および身体との類似点」
マクロな世界とミクロな世界→分子と原子→量子論理→可能性のかたまりとしての世界→時間多項式と決定論→非決定論的な問題→光子の性質→量子的不確定性について→チューリングマシーンの考え方→0とⅠ以外の要素→bit=binary digit→qubit=quantum bit →排他的でない疾患分類→量子ビットによる計算→量子重ね合わせ→量子もつれ→核磁気共鳴→加工されないで保存される脳の特徴→意識という決定装置→情報と脳→知覚依存性のインフォメーション→観測装置としての意識→自らを観測する脳→外部としての決定されたもの→ストリングという考え方→ホログラフィック化と宇宙の構成→2次元情報と人間の身体→アミノ酸と人間の身体→ドゥルーズ哲学とガタリ→構造主義と中間状態→決定論的に扱われた感情→精神分析の長所と短所→観測できると信じること→答えは向こうからやってくる→治療者の量子状態→意識状態の治療→非決定なものの決定化→直観と決定装置→非決定と曖昧の違い→非決定は重ね合わせ→意識と自我→構造主義は排他的論理→binary bit の反面教師→構造主義が準備した穴や欠如→補填の様式→宇宙も補填の様式→ホログラフィック化された総体そのものがたった一つのストリング→脳科学者がそれと気づかずに記述していること→自動的に治るということ→自分の量子状態に注目すること→中井久夫の著作と理論外のこと→エンタングルメントを脳の中で作り上げる海馬→コンピュータの形をしたモノリス→量子重ね合わせ→味わいつつ考える→ベルクソンのイマージュと直観→決定論に対するアンチテーゼ→部分と全体の一致→非決定と決定
精神分析の長所と短所
フロイトは、彼の著作のなかで、患者の口から語られたことのみならず、語られていない情報の取り扱いについて述べています。語られることなく非決定のままの情報を精神分析のなかに取り入れているのです。
つまり治療者の無意識をクライエントの無意識に対峙させる、という技法をもちいています。うまく対峙させることができると、治療者の心のなかにクライエントの心のなかで起こっている事象が浮かび上がってくる。量子論的ないい方をすれば「もつれ」すなわち「量子もつれ entanglement」のような現象が起こるのです。クライエントの心的な量子状態が、治療者側の心的な量子状態に反映する。その状態を治療者自らが観測し、そしてこれを記述するというわけです。
ですから、クライエントの心のなかを直接観測しているのではないのです。そのようなことは原理的に不可能です。治療者は、現前するクライエントから発信される平面的な複数の情報を受信し、それを自らの心的な世界のなかで空間化しているのです。この空間化は非常にデリケートで難しい問題を含んでいます。もつれが生じて空間化されている場合もあれば、治療者のなかの未解決なコンプレックスが触発されて空間化している場合もあります。
ですから実は、精神分析は、相手の心の中を探っている、という訳ではないのです。エンタングルメントによって、自分のなかで空間化されている事象を、自らが観測している状態なのです。このお話をするとわたしのなかではオランダの精神科医リュムケが提唱した「プレコックス・ゲフュール」という用語を思い出します。わたしがまだ研修医の頃、日本語では「分裂病臭さ」と翻訳されていました。今風に訳せば「統合失調症臭さ」となるのでしょうか。
プレコックス・ゲフュールというのは、治療者がスキゾフレニアのクライエントに対峙した時、治療者自身の心のなかに、曰く言い難いある種の感情が生じる。その感情のことをプレコックス・ゲフュールと呼んだのです。プレコックスという言葉は、クレペリンが提唱した「早発性痴呆 デメンチア・プレコックス」という用語に由来しています。
観測できると信じること
クライエントの心のなかで起こっている様々な事象を直接観測することは原理的に不可能です。できることは、クライエントが言葉にしたこと、表情にしたこと、動作にしたこと、等々を通して、それを治療者の経験に照らして推測することのみです。このような根本的な不可能や困難があるにもかかわらず、クライエントのなかで起こっていることを分かったつもりになったり、限られた情報を組み合わせて捏造したりするのです。その時、治療者本人は、クライエントの内部で起こっていることを理解している、症状を把握している、と思い込んでいるかもしれません。つまり、中堅の精神科医によく見られる現象は、自分は精神医学のトレーニングをしっかり受けてきた、経験も積んでいる、病理学も、診断学も、ICDもDSMもマスターした、内科研修もやっているから身体疾患があっても対応できる、等々の旗を掲げて、自分はクライエントを観測できる、と信じてしまっているという現象です。裏を返せば、信じていないと精神科医などやっていられない、自分が崩壊してしまう、という訳です。
つまり、第一歩が間違っている。幻聴があるとか妄想があるとか、そのような記述をした時、それはクライエントの二次元的な言語情報を取り込んで、治療者が自らの心のなかに再構成した三次元的な空間情報を記述しているに過ぎません。それは全て、いったん観測者の中に取り込まれたものを観測者自らがが観測しているに過ぎないのです。理由は単純です。人は、永遠に、他者の身体のなかに入り込むことはできないのだということです。
わたしは日常の診療のなかで様々なクライエントの診療に携わっていますが、わたしの治療現場を見ていただければ、エンタングルメントを念頭に置いてクライエントに対峙している、ということがわかっていただけるのではないかと思います。
こう言って良ければ、相手の量子状態をできる限り忠実に、こちらの量子状態でシミュレートして、そしてこちらの量子状態をさまざまな強度で観測するのです。わたしはその時、観測の強度をコントロールし、変化させます。強く観測すればクライエントが出している症状について、ICDやDSMに依拠した疾患分類みたいに、一義的に「こうだ」と断言することもできるし、弱く観測すればさまざまな可能性や重ね合わせ状態を確認することもできます。
答えは向こうからやってくる
精神分析の特徴は、迅速診断をしない、ということです。これが精神医学とは根本的に異なるところです。精神医学はできるだけ早く診断をつけようとします。そうしないと投与する薬が決まらないのです。双極性障害だとか統合失調症だとか、決定しないと先に進めない。そのような流れのなかで時期尚早な決定を行なうことがしばしばです。
その傾向に拍車を掛けているのがDSMという診断基準なのです。そこでは診断基準を作っていること自体が問題なのではなく、一つの脳天気な決定論に基づいて組み立てられているところが問題なのです。わたしたちにとって真に重要なのは「何かが決定されるまで保留にしておく」という態度なんです。真実や真理つまり答えは向こうからやってくる、わたしの臨床の根本はここにあります。答や治療法は向こうからやってくる。こちらから押し付けたり決定するものではないという考えに基づいています。
そのための準備というものがあります。答えが向こうからやってこれるような準備です。それは何かというと、クライエントと治療者において、量子状態のエンタングルメントが起こること、つまり相手の量子状態が自分のなかで生じるように準備することです。そのためには診察室そのものがひとまとまりの量子状態を構成しているのだということを意識し、そこへ治療者が、自らのなかに量子もつれを引き起こし得る状態で対峙します。そうすると次第に、何ものでもなかったものが、ぼんやりと形をとって現われてくるから不思議です。たとえば、空を見上げていると雲がいろいろな形に見えてきたりしますよね。たとえば、ある種の自閉症のクライエントにおいては、数字が風景に見えるとか、素数がつるつるに見えるとか、そんな感じで、何かこう、相手の量子状態に応じたこちら側の量子状態が生じてくるのです。
治療者の量子状態
エンタングルメントが上手くゆくと、治療者のなかで漠然としていたものが、特定の形や意味になってきます。その一方で、クライエントの側では具体的なものにはなっていない、つまり、なっていないから症状という未決定な、非言語的なものとして空間化されている。
そこで興味深いことは、答えは治療者の中に出てくるということです。ですから治療者は、その一定の量子状態を観測したり、コントロールしたりする技術を身につけておく必要があります。強い観測から弱い観測まで、自由自在に観測できるように、日頃から、エンタングルメントが生じ得るようにトレーニングをしておく必要があります。
クライエントの側から言うと、クライエントはその量子状態をうまく収斂させることができなくて、本来の収斂とは異なる仕方で、特定のホログラフを創り出しており、それが症状を形成しています。非決定な量子状態を上手く処理することができずにそれが症状化しているというわけです。
意識状態の治療
たとえば先の尖ったものに強い反応を示す「先端恐怖」という症状があります。これは先の尖ったものは先の尖ったものとしてしか見えない、つまり意味が一義的に決まってしまっている。それは先の尖ったもののようにも見えるけれども、実はそれは先の尖ったもの以外の別のもの、つまり風景の一部にしか過ぎないとか、そういう風な捉え方をすれば、尖っているという一義的な決定は薄らぐわけですけれども、そういうことができないでいる。
で、治療というのはおそらく一義的に決定されざるを得なかったような、そういうシステムをまたフレキシブルな多様なシステムへ戻してあげること、トラウマの治療などもそうですね。PTSDでは、すでに決定論的なかたちで症状が構成されていることが殆どですが、その決定論的に構成されている症状に対して、実はそれは多くの可能な状態の一つに過ぎないのだと観測し直せるようにもってゆくこと、つまりクライエントの観測装置を「正常」と呼ばれている作動様式に戻すことが治療へと繋がってゆきます。誤解を恐れずにいうなら、メンタルな治療というのは、何よりもまず、その人の意識状態の治療なのだということです。つまり「意識装置の治療」なのです。
ここで従来型の精神分析の考え方から離れてきます。つまり、無意識という格納装置そのものは非常にプリミティヴなもので、そんなに簡単に壊れるものではなく、そこから記憶を取り出してくる過程が壊れてしまうと考えるのです。そしてそのような機能を担っているのが、脳科学的な観点から言えば、以前から言っているヒポカンパス、海馬なのです。
非決定なものの決定化
わたしは海馬を、非決定なものを決定するためのメイン装置だと考えています。非決定なものを決定するとはどういういことかということを考えてみましょう。たとえば、自己組織化とか、オートポイエーシスといった言葉を耳にした方も少なからずおられると思います。
非決定なものを決定していく。それが人間の知を構成しているという風に考えてみましょう。つまり、非決定なものを決定する手順のどこかにミスが生じている、あるいは機能不全が生じている、と考えてみましょう。
非決定なものを決定するにあたって、記憶は海馬が関与している一方通行のサーキットのなかを何回転も回るのだということを確認しておきましょう。知覚装置で作成された情報は、記憶痕跡として、嗅内皮質、歯状回、海馬、海馬支脚を経て再び嗅内皮質へと戻ってきます。海馬のなかは、アンモン角 Cornet d'Ammon と名付けられた幾つかの部分があり、通常CAと略して書きます。そうすると記憶情報はCA3→CA2→CA1という順に運ばれていくわけですけれども、わたしは、自閉症、スキゾフレニア、デプレッションでは、CA2の部分の機能不全が関与していると考えています。裏を返せば、CA2の部分こそが、非決定なものを決定してゆく機能、つまり二次元情報を三次元化するための機能を担っていると考えるのです。
直観と決定装置
これはベルクソンでいうところの直観 intuition ですね。先ほどベルクソンの哲学がすごいといいましたが、それは彼が直観というキーワードに特別な意味を与えたからです。直観は非決定なものを決定する一つの心の作用と考えるのです。そしてわたしは量子もつれと密接な関係があると考えています。
量子論的に言うと、直観とは量子もつれによって生じるホログラフということになります。直観は知覚を介しますが、この知覚装置というのは、ある意味、決定論的な装置だといえます。知覚は外界の変化を素早く察知し、そこで記憶の痕跡が生み出される。言い換えるなら、知覚の様式に応じた二次元情報が形成される。それが脳へ運ばれてくる。脳のなかでは一方通行のサーキットを何回転もしているうちに特定の量子状態を引き起こして、情報の一部はホログラフィック化される。ちなみに、知覚で作られた情報は単なるビットではなく量子ビット quantom bit であることも覚えておいて下さい。