公開セミネール記録
「セミネール断章」
海馬症候群
hippocampus syndrome


2014年4月


講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2014年4月12日講義より


講義の流れ〜第4回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜


第4講:「量子力学的観測問題と精神分析、観測の強度と頻度」



自明性について→微分方程式と脳科学→実存主義と意識→意識の記述のされ方→ノエシスとノエマ→意識から言語へ→構造と言語→シニフィアンとシニフィエ→構造主義の前提→宇宙は一つの系(システム→)量子によって構成された世界→世界の重ね合わせ→観測問題という考え方→観測装置としての脳→人間の持っている観測装置の相似性→一人一人の観測者の世界の相似性→ほぼ同じ構造の人間→観測と観察→観測は視覚だけではない→観測者の問題→観測者も構成要素→関与について→ウオッシュアウトと本来の症状→単剤治療→薬を出さずに治すこと→情報処理システムの異常→大脳辺縁系と海馬→海馬の神経サーキットと精神分析理論→脳一元論→コルテックスのキャッチボール→貯蔵庫としての新皮質→観測システムとしての脳→2次元情報を3次元化するシステムとしての脳→情報とブラックホール→2次元情報としての宇宙→重力も幻影→重力と欲動→情報と生命→海馬の神経回路とホログラフィック化の機能→心的装置と海馬の神経回路→デリケートな海馬→アスタキサンチンとα-リポ酸→閉塞感がとれること→空間情報の変換→ホログラフィック化と情動の改善→夢の質と内容の変化→互いの観測→海馬と女性ホルモン→エストラジオールと意欲→グルタチオンの効果→フロイトの読み直し→コルチゾールと海馬→左の海馬の機能→右の海馬の機能→形象を言葉のように扱う→サヴァン症候群と記憶→情動に左右されないということ→共感力に乏しいこと→海馬症候群という言葉→クライアントの発話とビット情報→インフォメーションとシニフィアン→binary digit →ビット情報と感情→ビット情報と空間→ビット情報と言語→ホログラフィックの効果→言葉の通じるー通じない→隠喩核そのもののすり替え→隠喩核と治療者→海馬の機能の回復と隠喩核→転移とキーワード→海馬と大文字の他者の機能→アハラノフと観測の強度→観測と可能性→一義的に定まること→平等に漂わせる注意と弱い観測→パラノイアの体系→右利きの脳→ラカン理論と精神分析のデジタル化→必読書としての丸山圭三郎『ソシュールの思想』→ヤコブソンの言語学→海馬と性差→空間化の様式の違い→女性のリストカットと男性の「押す」こと→空間化の様式の違い→情報の基本単位としてのビット





観測システムとしての脳



 ヒトの脳は他の霊長類と比較して大脳皮質が高度に発達しています。しかしながら、この事実を以て、短絡的に「人間の人間たる所以は大脳皮質の発達にある」と考えることはできません。往々にして「高度に進化した人類が他の動物と違うのは大脳皮質が高度に発達しているからだ」と考えてしまいがちです。しかしこれは違います。誤解を恐れずにいえば「記憶容量を増やしただけ」なのかもしれません。コンピュータでいえば、内蔵メモリや外付けハードディスクを増設することに相当するというわけです。
 コンピュータで重要なのは中央演算装置 CPU です。脳においては、情報を処理する能力こそが注目されなければなりません。興味深いのは、その中を流れていくデータですが、これは恐らく情報工学でいうところのビット情報です。このビット情報の最大の特徴は「空間的あるいは三次元的な広がりをもっていない」ということなのです。
 ヒトの発生において、精子と卵子が受精した瞬間から細胞分裂が始まり、最終的に身体という立体物が出来上がるわけですが、その大もとが顕微鏡を使わないと見えないくらい小さな染色体の中に納められている遺伝子情報なわけです。遺伝子情報は皆さんもよくご存じのアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)またはウラシル(U)のたった5種類の塩基の組み合わせから構成されている、いわば2次元情報です。ちなみに、DNAの場合はAとT、GとCの塩基対で構成され、RNAの場合はAとU、GとCの塩基対で構成されています。このような情報はデジタルなビット情報なのですが、このような平面上の情報がどうしてこんな複雑な身体という3次元的構築物を作り上げてしまうのか大変不思議なことです。
 ここでは、そのような平面情報がどのようにして身体を立体化してゆくのか、ということに焦点を当ててみたいのです。そのためには超ひも理論の話が必要になってきます。つまり超ひも理論と精神分析の理論をオーバーラップさせながら話をしようと考えているわけです。
 それは一体どういうことか。言い方を変えるなら、遺伝子という非立体的なビット情報が、立体的な身体という構築物を作り上げることができるのはどうしてか。少し一般化すると、2次元情報がわたしたちのこの多様な世界をつくり出しているのはどのようなプロセスによってなのか、ということについて考えようというのです。まず最初に思い浮かべるのは夢の構造のことです。夢はしばしば3次元情報として体験されます。夢の空間はどのようにして成立しているのでしょうか?夢の中のリアリティーは一体どのような脳内の手続きの結果なのでしょうか?夢は空間情報として想起されますが、その空間は一体どこにあるのでしょうか?もちろん脳の中のどこを探してもそのような「空間」はないわけです。ということはつまり、わたしたちは、こういってよければ、何らかの観測の結果として、本来「ない」ものを創り出しているということなのです。

2次元情報を3次元化するシステムとしての脳



 ここで脳というシステムを二つの観点から考えてみましょう。一つは「脳は観測システムである」という観点、もう一つは「脳は2次元情報を3次元化するシステムである」という観点です。このようなシステムの機能によって、わたしたちが生きている空間や時間が「実体であるかのように」具象化されている、と考えるのです。





 2次元情報が3次元情報に変換されている。これは非常に重要です。当たり前のようで当たり前でない。脳の機能の注目すべき点は「2次元情報を3次元化する」ところにあります。実はこれはヒトの脳の機能のみならず、生物全般にあてはまることです。物理学の用語を使えば「2次元情報のホログラフィック化」です。

情報とブラックホール



 ここで最先端の超ひも理論で考えられている「宇宙」について少し触れておきましょう。一般に、宇宙は空間的な広がりをもっていると考えられていますが、実はこの宇宙の空間的な広がりというのは幻影なのだという考え方があります。M理論がそうです。
 ただし、構造的に、幻影であるわたしたちは、これまた幻影である宇宙について、すべてが幻影であると認めることができないパラドキシカルなポジションにいます。
 何故こういうことが考えられるようになったのかというと、ホーキングが物理学者の会合で、とあるパラドックスを投げかけたことが切っ掛けになっています。ホーキングのパラドックス。それは、ブラックホールのなかで何が起こっているか、という問いから始まっています。
 ブラックホールのなかでは、要するに膨大な情報が一点へと集中していく。そのなかで、情報というものが保存されているのか破壊されているのか、そういう質問を世界中の物理学者に投げかけた。ホーキング自身は、情報は最終的に失われ、量子力学もまた破綻するのではないかと考えたわけです。
 単純に考えれば、ブラックホールの底(特異点)などという場所は、何もかもぐちゃぐちゃになっていて、情報なんて保存されおらず、ブラックホールのなかに閉じ込められた情報は永遠に出てくることが不可能になる。ところが超ひも理論 Superrtrings theoryを研究している人、例えばサスカインド Susskind らは「情報は保存され量子力学も破綻しない」と反論したのです。
 ブラック・ホールのこの底に相当する部分すなわち特異点で情報はどのようになっているのでしょうか。誤解を恐れずにいうなら、海老などを熱い鉄板の上でギューとやってお煎餅にする、あんな感じのことが起こっている。小田原などへ旅行すると実演しながら売っているのを見かけるのですが、海老や蛸などを、熱い鉄板で押さえると平べったい煎餅状になる。よく見ると海老の形がわかるし、実は煎餅全体が海老のみでできている。あんな風になっているんだというのです。輪ゴムや切れた輪ゴムの塊みたいなものが圧縮されたかたちで存続しており、そこに情報は保存されていると考えるのです。

2次元情報としての宇宙



 この煎餅は2次平面なのです。つまり、ブラックホールの特異点で保存されている情報は立体情報でも3次元情報でもなく、2次元情報なのです。そこでさらに進めてゆくなら、そもそもわたしたちの宇宙も、情報としては2次元なのではないか、それがホログラフィック化されて、この広大に見える宇宙という3次元の幻影を創り出しているのではないかという考え方が生まれてくるのです。これはれっきとした物理学です。
 ここから連想すること。それは生物の細胞のなかにある遺伝子情報のことです。つまり個体の発生と成長において、2次元の遺伝情報は3次元化されている、つまりホログラフィック化されているわけです。そして、このホログラフィック化を消磁させている脳機能にこそ注目する必要があります。このような考え方が何故有力になってきたかというと、いまだに「重力」とは何なのか、どうして生じるのか、誰も説明できていないのです。ニュートンが万有引力を発見しましたが、万有引力が何故生じているのかは説明できなかったのです。

重力も幻影



 実は重力なんてない、重力も幻影の一つであるという考え方が出てきました。そこでは、重力とは2次元情報が3次元化された時、つまりホログラフィック化された時に付随して出てくる一種の効果のようなものと考えられます。つまりわたしたちが純粋に物理現象だと思っている重力は、実は情報の中に情報として入っていなかった、2次元情報として入っていなかったのだけれど、それがホログラフィック化されたときに重力が出現する。
 これを人間の脳に喩えてみるなら、この重力に相当するものは何だろうということになります。つまり本来は脳の中を回っている2次元情報が、わたしたちの観測という行為を通して、あたかも空間があるかのように世界を構築しているわけです。

重力と欲動



 実はその重力に相当するものが、わたしたちが「欲動」と呼んでいるものではないか、というのが今わたしが頭の中に置いているひとつの仮設です。つまり平面情報が空間化される時に生じてくる幻影が重力だとすれば、わたしたちの遺伝子情報が脳の中で処理されて空間化される時に出てくるものが欲動、さらにそこからわたしたちが人間にとってとても大切なものだと思い込んでいる情動や感情が生じてくるのではないかと考えるわけです。つまり欲動とそこから派生する情動や感情は、物理学の重力に相当するものなのです。
 どうでしょう。少しは量子力学と精神分析の甘美な関係が見えてきたでしょうか(笑)。つまりこれまでフロイトが直感的に生の欲動とか死の欲動として措定してきた一種の生物学的な重力も、この考え方に立てば、脳のなかの2次平面情報が3次元化された時に生じた効果なのだということになります。

情報と生命



 そうでないと、欲動がいったい何であるのか説明できない。生命がどうしてこういう進化を遂げてきたか説明できないのです。つまり生命はもともと2次元情報に過ぎなかった。その2次元情報に過ぎなかったものが、ある時からホログラフィック化されるようになった。ホログラフィック化されることによって、シュレディンガーがのいう「生命は負のエントロピーを食べて生きている」と表現したような、組織化する方向へ進んでゆく生物の歴史が始まった。つまり、エントロピーがあたかも減少しているかのような方向に物理的な効果が現われたのです。おそらくこれが物理学的な観点から見た生命の起源です。ですから、生命の進化というのは、実は2次元的な遺伝情報がホログラフィック化されてゆく歴史ということになります。
 そのような視点に立てば、海馬の中のサーキットが、諸情報、諸記憶をどんな風にホログラフィック化しているのか、ということに焦点を当てる必要があることが分かってきます。

海馬の神経回路とホログラフィック化の機能



 そういう意味において、海馬において機能している情報伝達の回路の研究は非常に重要になってきます。わたしは、この回路とホログラフィック化の機能とは密接な関係があると考えています。そしておそらく単なる一回転だけではホログラフィック化は生じない。空間を構成するためには、情報(記憶)がこの回路を何回転もしながら空間化されていくと考えています。
 これを単純化して書くと(ホワイトボードに書く)entorhinal cortex,→dentate gyrus,→hippocampus→Subiculum、と伝達されてゆくこの回路。 







 実は、フロイトが1900年に公にした『夢の解釈 Die Traumdeutung』の第7章に「心的装置」と呼ばれる図が出てくるのですが、この図は大変示唆に富んだ図でもあるのです。これはとても有名な何枚もレンズが挟まっている光学装置のような図です。この心的装置に向かって左から外的刺激が入ってくる。したがっていちばん左の端が知覚システムに相当します。知覚はドイツ語で Wahrnehmung なので、略してWと書きます。この知覚システムで最初の差異が作られる。作られた差異は知覚記号 Wahrnehmunfgszeichen として次の記憶システムに送られる。記憶システムは、何枚ものレンズで構成された光学器械のようになっており、そのなかを知覚記号(表象)が通過して、最後に運動として放出される。ここが意識 Bewusstsein ですね。だから頭文字を取ってW。これが有名なフロイトの心的装置の図です。








心的回路と海馬の神経回路



 この心的装置の両端、つまりWとBをぐるっと回して接合させる。そうするとわたしが以前から提唱している心的回路の図になります。なぜWとBを接合させるのか。その理由は、わたしたちの日常経験のなかでは知覚と意識が分かち難く機能しているように見えるからです。知覚されているものがそのまま意識であるように体験している。したがって、わたしは心的装置の直線をこういう風に回転させたのです。知覚から入った刺激は情報となり、心的回路を回転し意識システムへ到達して意識となる。意識となった情報や意識システムを素通りした情報が再び知覚へと再入力される。



 (内的8の字を描きながら)ここから入った情報が一周回ってこう回って出てくる。つまり、これが外部でこれが内部です。8の字を内側に折り曲げたような形になっており、わたしはこれを心的回路と呼んだわけです。時間のある方は、拙著『幻覚の構造』を読んでいただければその成立について詳しく説明してあります。
 わたしは以前から、わたしが提唱しているこの機能的な心的回路が、実は海馬が構成している一方通行の神経回路に酷似していることに気づいていました。海馬の機能とフロイトの心的装置の機能が実は相関しているのだという発見。ただし心的回路に変換させた後ですが、照らし合わせてみると非常に似ているのです。