公開セミネール記録
「セミネール断章」
海馬症候群
hippocampus syndrome


2014年3月


講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2014年3月8日講義より


講義の流れ〜第3回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜


第3講:「量子力学と精神分析の「甘美な関係」とは?」



新しいことは一つもない→わたしたちの構築物のなかにあるもの→空間という幻影→重力はホロフラフィックな効果→平面情報を立体情報に変換する→20世紀的な「構造」という概念→シニフィアンではなく情報→ホログラフィーとビット→遺伝子情報とわたしたちの思考→ビット情報のホログラフィック化→症状もまたビット情報の空間化の一つ→海馬とシナプス回路→ミトコンドリアの重要性→スキゾフレニアと点滴→STAP細胞→in vitro と in vivo →安全装置を外すもの→アポトーシスとネクローシス→取り出す操作の方法→享楽について→大文字の他者の享楽とファルス享楽→能動とファルス享楽→献身と享楽→享楽も幻影→首をたてにふらないこと→転移操作のファーストステップ→過剰な親切は人を遠ざける→ objet petit a と希望→分析のディスクール→安全装置としての症状→骨の脱灰→伊勢神宮→安全装置としての恋愛感情→「全部があらかじめ仕組まれている」→リストカットと情動→ビット情報に対する物質的操作→ホログラフィック化される前の情報→無意識の非破壊検査→意識化されることで破壊される無意識→非破壊で取り出す情報→失策行為とぶつ切り→時間軸に沿う情報→アナグラムと無意識→ビット情報へのアプローチ→量子力学と超紐理論→夢の分析の見直し→情報とは境目→ブラックホールのパラドックス→超紐理論→M理論→エントロピーの増大→絶対現象地平→境目は実体がない→ホーキングのパラドックス→超弦理論と超紐理論→ノスタルジーの問題→原発再稼働の問題→サンブランの帝国→だまされないという姿勢→根拠を問う質問の仕方→疑似コミュニケーション→同一化の障害→象徴的同一化、想像的同一化、現実的同一化→想像的同一化と日本人→象徴的同一化と唯一つの特徴→キーワード→幻聴→ホログラフィック化→ a = déchet → objet petit a を見出すことと小林秀雄→モーツァルトと小林秀雄→それは対象に備わる属性ではない→知覚されることによって存在する世界→ホログラフィック化と情報としての重力

空間という幻影



 わたしたちが抱いている「空間」というものの概念について考えてみましょう。奥行きとか広がりとか、物質に対する概念としては見える、触れる、聞こえるとか、叩くとか、わたしたちは漠然と、ある種の確からしさを経験から得ています。経験は、それらが確かなものだと取り敢えず認定しているわけです。日常の中では。十歩歩けば十歩先へ移動できるわけで、身体運動の経験から、空間的な奥行きがある、と、そう思い込んでいますね。
 「空間」とは、何か物質を入れておく容器のようなもの、あるいは物質やエネルギーを閉じ込めている箱のようなもの、と漠然と思い、奥行きもあり広がりもあると考えるのが自然なのかもしれません。しかしながら、物理学の先端理論では、空間は幻影なのだ、という考え方が提唱されています。つまりわたしたちが空間と思い込んでいるこの広がり、当然身体も空間的な広がりですが、この広がりを確実なものだと思い込んでいるというわけです。
 しかしながら、この広がりが実はホログラフィックな幻影である可能性が出てきたのです。元になっているのはホログラフィック重力論という考え方なのですけれども、これは重力という不可解な現象を説明するために生まれてきた理論です。ホログラフィックあるいはホログラム、ホログラフィーと呼ばれる概念は、遡れば1970年代に米国を中心に起こったニューサイエンスという運動が盛んになった時に注目されたものですが、今日、新たに、超紐理論(スーパーストリング理論)の研究から導かれたのが、重力に関するホログラフィー理論なのです。
 わたしたちは、重力の存在を当り前のように思っていますが、いまだに物理学的には解明されていません。地球の上に立っているのは当たり前、と思っていますよね。なぜなら重力があるから、と教わるわけですが、重力が生じている根拠を尋ねられると誰も説明できない。

重力はホログラフィックな効果



 スーパーストリング理論では、「重力」は、ホログラフィックな効果である、と考えられています。ホログラフィックな効果とは何でしょうか。ホログラフィーという考え方は、たとえ話でいうと、水と油をコップの中に入れたとしたら、その境目ができますね。あるいは手を机の上に乗せるとそこに境目がありますね。でもその境目は物質ではありません。しかし境目はあります。つまりそういう境界面、異なる次元の境界面上のビット情報がホログラフィック化されたものが空間なのだ、という考え方なのです。

平面情報を立体情報に変換する



 で、ここまで話をすると、それは精神分析の話ではない、そんなことをいわれても実際何の役にも立たない、なんていわれそうですね。しかしながら、わたしたちがが当り前だと思っているこの三次元的な広がりをもった物質世界も、実は一つの平面情報がホログラフィック化されたものなのだという考え方が有力なのです。驚くべきことですよね。つまり平面情報が何らかの形で立体情報へと変換されているわけです。
 実はこの理論は非常に重要で、意識や夢や幻覚の構造的な解明において大変興味深い示唆を与えてくれます。たとえばわたしたちは眠って夢を見ます。夢は固有の空間情報です。奥行きもあるし広がりもある。しかし脳のなかの何処を探しても奥行きも広がりもありません。ところが夢を見ていて目を覚ますと、自分がその空間の中にいたことがありありと思い出される。これがまさにホログラフィックな効果なのです。つまり心的な現象について、たとえば、わたしたちが世界だと、斯く斯く然々、こういう世界だと認識していること、たとえば今この部屋にいて、目の前に見えている机、壁、天井、これは確かなものだと思っていること、これらも実は、わたしたちの知覚器官から入力された情報が、脳のなかでホログラフィック化されたものなのです。このホログラフィーという考え方は、精神分析理論の未来形を考えていく上で非常に重要になってきます。まずこのことを最初に指摘しておきたいと思います。

20世紀的な「構造」という概念



 もう一つは、ラカンの精神分析ではシニフィアンという言葉を使いますが、これを現代の情報科学の用語に置き換えれば「情報 information」ということになるでしょう。もう少し正確にいうならビット情報です。シニフィアンといういい方は20世紀的ないい方。元々はフェルディナン・ド・ソシュールが提唱した記号 signe の概念から出てきた用語です。それに対して、ラカンは記号を構成するシニフィエとシニフィアンの結合を切り離してシニフィアンに注目したわけです。記号によって構成されるデジタルな構造という発想、これはこれで、20世紀的な思考としては非常に画期的なものでした。ご存じのように、ここから様々な構造主義的な思想が生まれてきたわけです。レヴィ=ストロース、バルト、ラカン、クリステヴァなど、特にフランスを中心に広がった考え方です。つまり、20世紀を席巻した思想に共通してみられるのは「構造」という考え方に他なりません。この考え方の基本は、内容ではなく形式に注目し、形式の客観的な特徴を記述してゆくというものです。それによって人類、親族、親族の基本構造、あるいは社会や心の仕組み、そういうものを解明してゆくという立場です。

シニフィアンではなく情報



 ここで、先ほど触れたホログラフィックな考え方と量子情報理論を念頭に置くと、これまで20世紀の前半からずっと受け継がれてきた構造主義的な考え方というものは、恐らく、もう一度思想的な転回を起こさざるを得ないのではないかなと思っています。
 つまりシニフィアンという用語を使わないという試みです。ではどのような用語を使うのか。それは先ほど述べたように「情報 information」という用語です。というのも、シニフィアンは、もともと言語学から借用された用語で、厳密ないい方をするなら、シニフィアンはホログラフィック化された後の情報の一部に対してのみ適用され得る概念に過ぎないからです。わたしたちが問題にしなければならないのは、ホログラフィック化される以前の情報をも含めた、情報全体の相互関係です。精神分析がそこへ到達できない限りは、常にホログラフィック化された情報のみを扱う操作概念になってしまうことでしょう。

ホログラフィーとビット



 もし将来的に、シニフィアンという言葉に取って代わる用語があるとしたら、それは「ビット bit」です。1ビットとか2ビットとかいういい方をしますよね。ビットとホログラフィー、この二つは21世紀思想のキーワードになるはずです。
 ホログラフィーの特徴は、平面上の情報が、空間的な情報に変換されることであり、しかもこれは実体ではなく幻影だ、ということです。量子重力理論に従えば、平面上には重力はなく、空間情報へ変換され、幻影が生じた瞬間に重力が発生するのです。すなわち重力というのは、平面上のビットが、空間情報へホログラフィック化された時に生じる効果の一つというわけです。
 このような理論構成の底辺に流れている考え方、このように考えてゆくプロセスそのものが大切です。もしかしたら、わたしたちが心と呼んでいるものも、このようなプロセスを辿っているのではないかと考えてみること、あるいは、わたしたちの生物学的身体すらも、こういうプロセスを辿っているのではないかと考えてみることが大事なのです。
 そこですぐに思いつくのは、わたしたちの身体を空間的に構造化している設計図のことです。それはすなわち、染色体 chromosome の中に折り込まれている遺伝子情報のことです。端的にいうなら、遺伝子 gene に組み込まれているのはビット情報なのです。生殖活動において、精子が卵子に侵入して受精する、これは取りも直さず情報の結合です。遺伝子自体に身体的な広がりはないわけですが、そこには多量のビット情報が納められていて、生物学的な身体を空間化していく。これが要するに個体の発生です。

遺伝子情報とわたしたちの思考



 同様に、わたしたちの思考は主に脳によって生成されるわけですがーーーだだし、主に脳といった理由は、実は身体全体が脳だとわたしは考えているのでーーー器官としての脳のなかに保存されているビット情報がホログラフィック化されたものが、いわゆる心とか精神、あるいは日常空間とか生活空間とか、心の中の広がりとか、そういうものを構成している、と考えるわけです。
 そこで精神分析理論に求められている役割の一つは、ビット情報がどのようなプロセスによって空間化されているのか、ということを明らかにすることでしょう。というのも、意識も含めて、精神症状もまた、ビット情報が空間化されたものと考えることができるからです。たとえば閉所恐怖症、一人でエレベーターに乗れない、狭い空間にいると強い不安に襲われる。これを空間に対する心的ビット情報の書き換えだと考えるわけです。ビット情報書き換えの一例としての恐怖症。たとえば「わたしは鳩が大嫌い、鳩が飛んできただけで、ものすごく怖い」というのも空間的な情報の投影、ホログラフィック化です。つまり精神症状を心的なビット情報の空間化であると考えるのです。幻聴もそうです。人がそこにいないのに人の声が聴こえてくる。

ビット情報のホログラフィック化



 正常異常を問わず、わたしたちの精神現象のすべてを、ビット情報のホログラフィク化であると考えてみること。そして、このビット情報がどのような形で記憶されているのか、あるいはどのような仕組みで脳の中に保持されているのか、ということを解明してゆくこと。
 今年のセミネールの「海馬症候群」というテーマからもわかるように、このビット情報をコントロールする中心的な役割を果たしているのが、海馬とその周辺のシステムなのです。海馬のシナプス・システムは以前にも指摘したように、非常に不思議なシステムを構成していて、山手線みたいに循環構造になっており、しかも一方向にしか進まないのです。
 一方向にしか回転しないシナプス回路の特徴は、回転して生成された出力が何度も再入力できるということにあります。つまり出力された情報を再び入力することができる。つまり海馬において情報の再処理や増幅がおこなわれているということです。情報処理の基本は、出力を何度でも入力へ回帰させることができるということなのです。
 つまり、わたしたちが斯く斯く然々なものだと思って描き出している日常空間や、その空間のなかに生じて来る様々な症状というのは、この何度も回転する情報のサイクルのなかで構成されていくと考えるわけです。






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享楽について



 わたしたちを運んでいる生命現象というのは、精神分析的ないい方をすると、エロスとタナトスの鬩ぎ合いのなかで生じています。
 もう一つ興味深いのは、わたしたちが欲望を満たしたり、欲動を行使した時に得られる一定の感覚です。精神分析ではそれを享楽 jouissance と呼んでいます。快楽の一種ですね、身体を基盤としたエネルギーの放出です。
 わたしたちは通常、快楽はエロスによって得られる、と考えがちです。セックスによって快感が得られますし、美味しいものを食べると満たされます。しかしながら、それらの充足感が、エロスによってのみ得られると思ったらそれは違うと言わざるを得ないのです。わたしたちは、タナトスによっても、享楽を獲得することができるのです。
 タナトスがわたしたちに与える快楽とは何でしょうか。たとえばこういう体験はどうでしょうか。冬場にお風呂に入ったら、乾燥していた脚がたまらなく痒くなって、血が出るまで搔いてしまった。痛いけれど気持ちがいい。これはエロスというよりタナトスの作用であると考えられます。一種の自傷行為です。たとえば、心から沸き起こってくる辛さにこれ以上耐えられない、という時に自分の皮膚を切ることで一定の安心感や快感を得る。これもタナトスの作用であると考えられます。三島由紀夫が市ヶ谷の駐屯地に入っていって自決した。これも一瞬、快楽とは関係ないように思われるけれども、これは実は、快楽の獲得行為、つまりタナトスが運んでいる快楽であると見做すことができます。

大文字の他者の享楽とファルス享楽



 タナトスがもたらす快楽のことをラカンは「大文字の他者の享楽」jouissance de l'Autre 。と呼んでいます。これに対して、エロスが獲得していく快楽はファルス享楽 jouissance phallique です。で、ファルスというのは皆さんご存知のように男根のことですけれども、ファルス享楽は女性にも存在します。たとえば知 savoir を獲得してゆくのはファルス享楽です。ここでよく誤解されていることを指摘しておきます。それは女性が実際のセックスによって獲得している快楽のことです。セックスによって女性が獲得する快楽のことを「大文字の他者の享楽」だと説明するラカン学者がいますがそれは正しくありません。実際のセックスによって女性が感じているのは実はファルス享楽なのです。

能動とファルス享楽



 なぜでしょうか。その理由は、男を「使って」快楽を獲得しているからです。つまりその快楽の獲得は能動的なものなのです。そうではなく、大文字の他者の享楽というのは、圧倒的に自我の外からやってくるものです。たとえばマスターベーションや男女のセックスにおいて得られるのはほぼすべてファルス享楽です。大文字の他者の享楽はなかなか得られるものではありません。大げさないい方をすれば、大文字の他者の享楽とは真に究極的な快楽のことです。大文字の他者の享楽に一番結びついている概念を挙げるとしたらーーーわたしが『性倒錯の構造』の増補改訂版に加えた「性倒錯のトポロジ―」という論文のなかで示した概念ですがーーー「献身 dévouement」という次元です。自らを投げ出して他者に奉仕するという次元、これが大文字の他者の享楽の獲得様式であり、そこで働いているのはエロスではなくタナトスなのです。

献身と享楽



 自分の身や命を投げ打って何かのお役に立つ、ということがこの世では起こります。そういうことを実行する人がいるのです。この時の苦痛は、もはや苦痛ではなく、ひとつの享楽へと変換されています。

享楽も幻影



 二つの享楽、すなわちファルス享楽と大文字の他者の享楽。これらの享楽も、実はビット情報のホログラフィック化によって生じる一つの幻影であると考えることができます。わたしたちが遺伝子情報として持っているこのような基本的なビット情報というものは、享楽の出現も含めて、あるいは死の欲動とか生の欲動、そういうものも含めて、全てあらかじめ非空間の中に情報として刻まれているものなのです。
 この考え方は非常に重要です。たとえば、従来の精神科診療、従来の精神分析、古典的な精神分析を実践している人たちは、目の前のクライエントが語ること、あるいは目の前のクライエントの行動、そういう情報をひとつの現実とか、あるいはひとつの事実と見做して、それに対して精神分析家あるいは精神科医として様々な判断を下し、様々な治療をおこなう訳ですが、わたしが先ほどから指摘しているビット情報とそのビット情報のホログラフィック化という考え方に基づくなら、事実と思い込まれている情報の総体は、全てクライエントと治療者の双方の心的なビット情報が、量子力学的な意味において、相互に観察され、干渉し合いながら空間化されているものなのです。