セミネール断章 2014年2月8日講義より
講義の流れ〜第2回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜
第2講:「フロイト=ラカン思想の限界と従来型精神分析の破綻」
雪についてのマスコミの報道→お子様ランチ→ガラパゴス日本とサンブラン→鏡像段階と第三項→独立していないこと→サンブラン・幕の内・倒錯的なもの→鏡が言葉に入れ替わる→想像的同一化→区別がないこと→ソシュールの講義→丸山圭三郎と『ソシュールの思想』→親族の基本構造→構造主義の見直し→フォルムと表象→The observer is obsered →被害的加害者と加害的被害者→安部公房『友達』→ダブルスリットと被害的加害者→観測と被害的加害者→観測するものーされるもの→僕ちゃん思想→国際精神分析教会→性精神分析と宗教→弱い観測の連続としての精神分析→ぼんやり聞き流すこと→一義的に決まること→取り出す操作の方法→自由連想の二つの誤謬→形象化と加工→2つの観測とフィクション→表現方法、表現形式への注目→自分のなかを探す→教育分析は必要か→自己分析と教育分析→弱い観測を続けること→夢分析→決定されたものととりこぼし→たくさんのアナグラム→愛の対象と食事→ラカンのセミネール→フロイト/ラカンが正しいという前提→ボロメオの輪とラカン→心的な世界では構造主義的な差異の体系が成り立たない→構造主義は意識・前意識において有効→何ものでもなかったものから何ものかを取り出す操作→生き延びていくためのシステム→自我イコール自己という錯覚→自我・超自我・エス→無意識をのぞきこむ方法→クライアントの無意識をのぞきこむ技法→2つの道→夢の分析の再吟味→カウチを使うべきか→精神分析とキーワード→キーワードという薬→母親の不在と父親の不在→職人技と体験→教育分析の弊害→大自然という分析家→大自然から観察されること→心がリセットされること→分析家の使い方
ガラパゴス日本とサンブラン
日本で独自の進化を遂げた携帯のシステムがあります。NTT DoCoMo のFoma とそれに付随するサービスなどはその典型ですね。幕の内弁当携帯あるいはガラケー(ガラパゴス携帯)などと呼ばれています。ガラパゴスという表現は、大陸から遠く切り離されたガラパゴス諸島で生物が独自の進化を遂げたというところから派生した喩えで、グローバルには通用しないその国で独自に発展したシステムを指して用いられます。
ガラパゴス携帯、略してガラケー、のなかにはいろんなサービスが詰め込まれています。詰め込まれているといえば iPhone などでも様々な機能が入っているのですが、その込められ方の様式が違います。例えば iPhone では、各機能が用途に応じて階層構造になっている。一方、ガラパゴスというのは、各機能が並列構造、言ってみれば、おもちゃ箱に様々なおもちゃが詰まっているような方式です。論理的な階層になっていないのですね。子どもがおもちゃを部屋中に散らかしているのと似ています。子どもは好きなところに移動して好きな遊びをする。公園方式と言ってもいいかもしれません。様々な遊具があって遊びたい遊具で遊ぶ。そこには階層はありません。つねに平面的な広がりの中での選択肢なのです。そこにあるのは目を惹くような玩具や遊具、つまり見せかけの道具が鏤められた見せかけの平面世界なのです。
この見せかけの平面をサンブランの平面と呼び替えてみましょう。ガラパゴス携帯や日本的な幕の内弁当の特徴を一言で言うなら「見せかけ semblant」ということになります。興味深いことにラカンは日本のことを「見せかけの帝国 l’Empire des semblants」と呼んでいます。これはロラン・バルトの『記号の帝国 l’Empire des signes』を捩ったものです。
幕の内弁当、みなさん好きですよね。東京駅に行くと駅弁の売店があちこちにあって、幕の内弁当の中味の写真が飾られていて旅立つ前のわたしたちの食欲をそそります。ご存じのように、もともと幕の内弁当というのは、歌舞伎の幕間に食べるお弁当のことですね。歌舞伎そのものもサンブラン的な要素が強いのですが、そこで食べる弁当もサンブランというわけです。
実は日本文化をこのサンブランという視点から眺めてみると様々なことが見えてきます。サンブランの世界の特徴、それは見た目は賑やかでとても楽しいものなのですが、しょせん絵に描いた餅、映画の広告看板のペンキ絵のような、それ自体は薄っぺらな見せかけの世界なのです。向こう側には何もない。つまりサンブランの特徴は中味がないということです。
ではどうして中味がないものに惹かれてしまうのか。それは中味がない分、そこに思いを込めることができるからです。中味は自我が想像力で補うのです。つまり見えているものに思いを込めれば、そこに自分なりの価値が生まれるわけです。日本文化の特徴はサンブランで構成されており、そのサンブランのなかに自我を投影することができる。つまり自我はサンブランと想像的に同一化するのです。
聴講者 感情移入とか
感情のみならずすべての要素。象徴的なものも想像的なものも、意味も価値も感情も、何もかもそこに映し込むことができる。結局それは一対一の関係です。鏡の手前と向こう側の関係、つまり二項関係です。サンブランの特徴は二項関係が基本になっているために、対象のなかに自分をうまく投影できるようになっている。ですから、客観的な価値というより、自分の思い入れの数だけ価値や意味が生まれてくる関係です。趣味や嗜好の話なんかが典型的なものです。例えばお気に入りの映画の話をしている人同志の会話「あの映画は最高!」「その作品は面白くない」等々、自分の気持ちの表明ではあっても、好き嫌いの話になると客観性に欠けることが多い。
このような二項関係を考える場合に知っておかなければならないのは、ジャック・ラカンの鏡像段階 stade du mirroir という考え方です。一般に「鏡像段階」と訳されていますが、正確には「鏡の段階」です。鏡像というのはイメージのことで、ラカンはイメージの段階とは言っていないのです。
それには深い意味があって、二項関係について話をするときに自と他の関係について終始しがちですが、「鏡の段階」というのは、実はその間に鏡という第三項があるのだ、という指摘なのです。つまり「鏡そのものは見えていないのだ」ということに気づいていることが重要なのです。「鏡を見てください」と言われたら、それは鏡そのものではなくて、鏡に映し出された像を見ているわけですね。もっと正確に表現するなら、鏡のなかに映し込まれた光を見ているわけです。そもそも鏡そのものを見る手段というものがあるのか、ということです。つまり自らは姿を現わさないけれども、光で描き出された全てを支配しているようなポジションにあるもの、それが鏡なのです。
ですから、通常の発達段階の記述で、母-子の二項関係から父-母-子の三項関係に移行するといういい方は、厳密な意味では間違っているのかもしれません。いわゆる鏡像段階には鏡という第三項が入り込んでいるわけですが、それ自体は認識することができない第三項だ、ということなのです。しかも面白いのは、鏡そのものはきわめてマテリアルなもの、物質的なものであって、かつ、光学的なもの、だということです。これはヒトが視覚優位に育ってきたという経緯と大いに関係があります。もし聴覚領域で鏡に相当するものがあったとしたら、それは音を百パーセント跳ね返す壁でしょうか。もしこの世に視力ゼロという形で進化してきた人間がいたとしたら、この鏡に相当するものは、音波を百パーセント跳ね返す壁なのかもしれません。そうしたら、似たようなことが起こるかもしれません。発声したものを自分の耳で聞くということが、あたかもその壁の向こうにもう一人自分がいるかのように錯覚するかもしれません。もしそうであったら、人間の存在様式というものも、また別のものになっていたことでしょう。
聴講者 鏡がなかった時代って鏡像段階ってあったのでしょうか。
ナルキッソスのギリシャ神話にあるように、泉や水溜があるので必ず鏡はあるのです。しかも野生の動物は水が必要なので、必ず泉のところまで行って水を飲むのですから、ほ乳類が誕生する以前から鏡は自然界のなかにあったと考えた方がいいでしょうね。
聴講者 でも今程くっきりとは写らないから余計に感情移入しやすいとかそういうことは。鏡と水面って同じ映るは映るのですけれど鮮明度が違う。
人間の欲望というのは、水面だけで留まることはなくて、その水面に類似したものをやはり作ろうという欲望はもうごく初期からあるわけです。たとえば日本だと古墳の出土品の中に綺麗に磨かれた金属の鏡があったりします。ですから、おそらく、人類が、水面よりも鮮明に自分を映し出すことのできる鏡を作るようになってから、言語発達というものに加速度が付いたのではないかと想像しています。
自由連想法の二つの誤謬
通常、自由連想では「頭に思い浮かんだことを分け隔てなくすべて話してください」とクライエントに告げます。実はそこには二つの誤謬が潜んでいます。それは何かというと、まず頭に浮かんだ時点で形象化(知覚化)されているわけです。つまりそれ自体は既に無意識に格納されている情報そのものではなくなっています。更に、その形象化されたものを報告する時点で加工が入る。つまり脳裏に浮かんだことは、たとえそれが非言語的な事象であっても、言語で表現しなければならない。これが自由連想の宿命なのです。
量子力学的に言うなら、ここには既に二つの観測が入りこんでいます。つまり無意識から取り出されたイメージの段階、そしてそのイメージを言語で置き換える段階です。実はこれが自由連想法が孕んでいる大きな問題点なのです。つまりクライエントが語っている事は、既に知覚と意識によって加工された一つの虚構(フィクション)なのだということです。そのことを知った上で耳を傾けなければなりません。自由連想が無意識へ辿り着く正当な技法だと思い込んでいたら大きな間違いです。そうではなく、自由連想によってわかることは、その人の無意識そのものではなく、無意識の情報の加工の仕方がわかるということなのです。どのような行程でこの人が未知の情報を言語化しているのか、というプロセスについて辿ることはできるけれども、無意識そのものに格納されている生の情報についてはわからない、ということを知っておく必要があるのです。言い換えるなら、自由連想法は無意識の「破壊検査 Destructive Inspection」であって「非破壊検査 Non Destructive Inspection」ではないと言うことです。
これまで、精神分析の分野において、このことについて注意を喚起する人がいなかったのが不思議です。自由連想法はすでに無意識の破壊検査なのだということを常に意識しておくこと。もし、精神分析に携わっている人たちが自由連想によって獲得された情報を、そのまま無意識の産物だと思い込んでしまうと、それらの解釈を誤ってしまうかもしれません。この誤謬を防ぐために最低限必要なことは、クライエントが自由連想で語っている時、肝心なのは語っている「内容」ではなく、その「語り方」なのだということです。極端なことをいうと、中味なんか聞かなくてもいい(笑)。どういうことかというと「先生、今朝起きて窓を開けたら、辺り一面真っ白な雪の世界だったんですよ」という報告と「銀世界だったんですよ、朝起きたら」という報告は既に加工の仕方が違うということです。その加工のプロセスに注目することが肝要なのです。例えば、雪景色と言わずに銀世界と表現した。その銀世界という表現のなかには濁音が含まれている。で、そのあとにその人の報告を聞いていると非常に濁音が多い。よくよく訊ねてみたら、親が吃音者だった、という事実が判明したりする。
わたしたちは、何よりもまず、語りの内容 contenu もさることながら、語りの形式 forme にこそ注意しておく必要があるのです。もし分析家がクライエントの語る話の内容に引きずられてしまうと形式が見えなくなってしまう。つまり精神分析は、意外なことかもしれませんが、クライエントの語りの意味内容や価値について吟味する技法ではなく、その人の語りの形式に注目する技法なんだ、ということです。問題は、それに気づいている精神分析家がどれほどいるのか、ということです。
自己分析と教育分析
聴講者 自分で分析することはできないのですか。
「自己分析」の限界や是非について、わたしは従来の精神分析の常識とはまったく正反対の考え方をもっています。つまり、精神分析という行為は、むしろ自己分析以外にはあり得ないと考えているのです。何故か。分析家がクライエントに対峙した瞬間に、双方が影響を受けるのです。つまり他者に観測されるだけで自分の心に変化が生じるのです。それが精神分析なのだ、と主張する人もいるかもしれませんが、フロイトが精神分析を発明した時は、そうではなかったはずです。フロイトの手法はとても面白い。彼は、患者のなかに何か興味深いことを発見すると、必ず自分のなかに同様のものが無いか探したのです。自分のなかを探して、首肯し得たものだけを発表した。逆に自分のなかを探してどこにもないものには疑問を持った。有名な件としては「文化のなかの居心地の悪さ Das Unbehagen in der Kultur」(1930年)という論文のなかで、ロマン・ロランの言う「大洋感情 Ozeanisches Gefuhl」を肯定しなかったことが挙げられます。フロイトから「快楽原則の彼岸 Jenseits des Lustprinzips」を贈られたロマン・ロランは「穏やかな大洋のような感情がどんな人の心のなかにもある」と述べてフロイトを諭そうとしたのですが、フロイトはこれに対して「自分の中をどれだけ探してもこういう大洋感情のようなものは見つからない」と反論したのです。
確かにフロイトは、表向きには「教育分析は必要」と言ったのですが、その理由は、下手をすると消えてしまうかもしれない精神分析の考え方を維持させ、継承させてゆくためであり、確実に精神分析を理解している人たちの集団を作る必要があったからです。つまり精神分析という思考法が世界の思想のなかで一定の地位を得るためのフロイト流の戦略だったのです。だから教育分析が必要だった。
教育分析が必要だと主張する人たちは口を揃えて「眼が眼自身を見ることができないように、自己分析には限界がある」と構造的なパラドックスについて説明します。要するに「自分には見えない部分がある」というロジックに立脚しています。「あらゆるロジックには自身を振り返ることのできない領域がある」というわけです。それが奇しくもフロイトが「文化のなかの居心地の悪さ」を発表した年と同じ1930年にクルト・ゲーデルによって発表された不完全性定理です。「ある無矛盾の系のなかにはそれが真とも偽ともいえない領域が存在する」ということの証明です。つまり「自分で自分を振り返る時に全てを振り返ることができない」という事実が数学的に証明されたわけです。
それはそれで正しいことですが、現実の分析家を見てみると事情はちょっと違います。例えば、自分の目の前にいる分析家、わたしは教育分析家ですと自任している人でも、当然のことながら自身で見えていない部分があるわけです。厳しいことを言うと、果たしてそのような人が原理的に他者の分析家になり得るのか、あるいはそのような人たちだけが分析家であると主張することができるのか、ということなのです。誤解を恐れずにいうと、結局のところ、教育分析をやろうがやるまいが、最終的な砦は自己分析なのです。どんなに教育分析家の前でいろいろなことを語り、吐き、言ったとしても、結局そこで行われていることは「教育分析家」の「存在」を利用した自己分析の作業なのです。わかりますか。過酸化水素水に二酸化マンガンを放り込むと酸素が発生する。二酸化マンガン自体は何も変化していない、つまり触媒みたいなものです。分析家は、結局のところ自己分析のための触媒なのです。自己分析を行う者は、触媒の存在によって、自らが変化する。触媒は、もはや分析家である必要はない。それは人の小ささを教えてくれる大自然なのかもしれないし、大自然の中で巡り遇う取るに足らない小動物なのかもしれない。そのような「触媒」に巡り遇えた時、人は、自らが自らの必然性によって、あるいは蓋然性によって変化してゆくのです。それが精神分析の基本形だと考えます。