セミネール断章 2014年1月11日講義より
講義の流れ〜第1回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜
第1講:「《海馬症候群 hippocampus syndrome》の提唱とその根拠」
海馬症候群という名称→海馬の名の由来→理化学研究所の行動→新しい研究を出すこと→海馬についての解剖学的な話→フロイトの心的システムの図と海馬のサーキット→光学と波動→圧縮と移動→隠喩と換喩→一次過程と二次過程→ラカンの内的8の字とフロイトの心的装置→メビウスの帯の縁どり→記憶は脳のなかだけではない→海馬体(嗅状皮質・歯状回・海馬・海馬支脚)→脊髄反射の場合→知覚システムと海馬の相似性→逆流について→ファルスのシニフィアンとの関係→ダメージを受けやすいが立ち直りが早い海馬→自閉症の基本病理→陳述記憶→一方向性→舌根沈下→リンビック・システムにおける量子状態の解明→やぶこぎと学問→M理論→海馬症候群という旗→フロイト/ラカンという梯子→常識を括弧にいれること→観察について→ダブルスリット→observation の問題→宇宙は何ものでもない→生命は宇宙にとっての意識→宇宙の自己意識→心は物理現象であると考えること→世界認識と幻聴と幻覚→ノエシスとノエマ→être en soi とものそれ自体→現象学と意識→量子論の基本→波束の収束と言い間違いやアナグラム→精神分析の考え方で量子力学を見直す→脳と心を区別しない→M理論→夢と波束の収れん→アハラノフと観測の強弱→覗き見ること→文系的発想について→jouissanceと陳述記憶→献身という快楽→現代思想と構造主義→構造主義の考え方→観測問題と構造主義→ラカンと量子論的空間→観測と真理→海馬と観測→量子論的な考え方と生命の跳躍という考え方→海馬の機能と無意識の領野→海馬の機能と精神病
現代思想と構造主義
日本には、いわゆる「現代思想」というものの一翼を担っている(と見做されている)人たちがいます。たとえば、浅田彰さん、柄谷行人さん、中沢新一さん、大澤真幸さん、といった人たち。そういう人たちの思考の基準として取り入れられているのは構造主義的なものの考え方です。
構造主義は、言語学のみならず、人類学、社会学、哲学、精神分析など、現代の思想について教えたり学んだりしている人たちにとっては必須の考え方といってもよいでしょう。構造主義的な思考法の基礎になっているのは、いうまでもなくソシュールの『一般言語学講義』です。1900年代の初めの頃に出版された本で、ソシュール自身が書いたのではなく、彼の弟子たちが資料を持ち寄って一冊の本に仕上げた講義録です。どうも天才と言われている人たちは自分で本を書かないようですね(笑)。弟子に書かせる。プラトンに対するソクラテスもそうです。現代でいえばラカンもそうですね。ラカン自身の手になる著作は『エクリ』だけです。それ以外は講義録や口述タイピングになっている。ただし『テレヴィジオン』は活字化されるときにラカンが目を通したらしいです。
構造主義の考え方
構造主義の功績は、言語がデジタルな構造を構成していて、その構造は言語のみならず、社会の成り立ち、心の仕組みなど、わたしたちが作り出す殆どすべての構築物が差異の体系から成立していることを明らかにしたことにあります。しかも、その「差異」も、ポジティヴな差異ではなく、ネガティヴな差異です。つまり「差異」は、あくまでも異なるポジティヴな要素間の境界のことであって、実質的なものではありません。
皆さんは岡山名物「きびだんご」を買ったことがありますか。ちなみにわたしは子供の頃からきびだんごが大好きで、あの透明感のある黄色い小型の丸餅のような形、口のなかのやわらかい食感を思い出すと、今でも急いで買いに行きたくなるほどです(笑)。この昔からある箱入りのきびだんごが、実は構造主義の差異の概念をうまく説明してくれるのです。つまり、箱入りのきびだんごの蓋を開けてみると、そこには仕切りで区切られたきびだんごが整然と並んでいるのです。その仕切りは薄い折り箱の板のような素材(おそらくエゾマツのようなものだと思いますが)でできており、井桁状に組まれて正方形の枠が窓のように並んでいます。
構造主義的な考え方が登場する以前は、要するにソシュール言語学が現われる前は、言語や社会を構成している要素について考えるとき、いってみれば、きびだんご自体を見ていたわけです。一方、構造主義では、きびだんごを全部食べた後の仕切りの枠のことについて語っている。これが構造主義です。さらにいうなら、この箱は上の段と下の段の二重底になっている。つまり縦に区切られていると同時に水平にも区切られている。二種類の区切りがあるわけです。そしてこの区切り方、切り取り方は任意なのです。これを恣意性 arbitraire といいます。縦方向の任意の切り方もあれば、横方向の任意の切り方もある。つまり二通りの恣意性があります。これらをソシュール言語学の研究者である丸山圭三郎さんは、第一の恣意性、第二の恣意性と呼んでいます。上の段の部分をシニフィエ、下の段の部分をシニフィアンとすると、シニフィアンとシニフィエの結びつきが恣意的である(第一の恣意性)と同時に、シニフィエ相互やシニフィアン相互の切り方が恣意的である(第ニの恣意性)というわけです。
観測問題と構造主義
ここでさらに進みます。構造主義を超えてみようというわけです。すなわち、今述べた構造主義的な定式は、量子力学的にいえば、観測された結果についての定式なのだということに注意してください。先程の話の流れからいうと、構造主義的な議論は、対象の様相や差異の構造が一義的に決まってしまった後のことだということです。わたしたちが意識的に話している、現に今ここでわたしの話は、実際に観測されてひとつのまとまった文章とか言語行為として認識されているわけですが、確かに出来上がったものに関しては構造主義的な考え方が適用できるかもしれませんが、先ほどから述べている無意識の領域、つまり「なにものでもあると同時になにものでもない」という領域に関しては、もはや構造主義的なネガティヴな示差体系は通用しないのです。つまり量子論的にいえば、構造主義を生成しているのは一定の意識、一定の観測行為なのだということなのです。したがって、構造主義的な思考に基づく思想は、特定の観測によって生み出されているのだということです。その意味では、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』も例外ではありません。
問題は「現代思想」を語っている人たちがこの事実に気づいているかどうかです。つまり様々な思想の源泉である貯水タンクのような、あるいは様々な思想の材料を保存し続けるタイムカプセルのような「無意識」の領域では、残念ながら、示差体系を拠り所とする構造主義的な考え方は成り立たないのです。つまりきびだんごの仕切りがなくなってしまっているのです。つまり単なる箱になっており、そこにきびだんごが、塊みたいに収められている。それを意識が取り出すときに仕切りが付いてくる。
したがって量子力学的思考法が精神分析に与えている課題があるとすれば、それは無意識の中味をそのままの状態で観測することができないか、ということになります。取り出されてしまうことで確定された言表や症状を作り出しているのですから、言表や症状になる以前の初期状態を、可能な限りありのままに見るという方法の発見や技法の開発が重要になってくるでしょう。なぜなら、現在の言表や症状をそれらの初期状態へと送り返すことができたなら、つまり初期化することができたならば、これまで治療不可能と思われていた精神疾患を、疾患以前に初期化した上で再び意識化させ、いわゆる「正常」な状態へ導くことができるかもしれません。
おそらく今後、心的なものを解明してゆく上で、今日暫定的に「無意識」と呼ばれている心的な領域に対して、人為的な影響を最小限に抑えつつ観測する方法を発見あるいは開発することが、最重要課題になってくるでしょう。そしてその観測結果によっては、観測されたものの組み合わせで構成されている従来のあらゆる思想が、その方法論の修正や改変を迫られるという事態が起こるかもしれません。
ラカンと量子論的空間
ラカンが、ボロメオの結び目を初めとして様々な結び目について言及していることは皆さんも承知のことと思います。しかしながら、三次元空間では成り立つ結び目のトポロジーも時間の次元が加わる4次元ではすべて「解けて」しまうのです。それと同じように、構造主義的な示差体系に基づく思想は、量子論的空間のなかで「融けて」しまう。この「融ける」は固体が液体に変化する場合の「融解」の「融」です。わたしの知る限り、量子論的な空間のなかで構造主義的な示差体系が融けると表現している人はまだいないようです。
今はまだ空想物語のように耳に響くかもしれません。しかしながら、こういう地平に立つことなしに、常識という既成概念に立ち向かうことはできません。非常に繊細に、正確に、そして大胆に、わたしたちが「心」と漠然と思ってきた領域に対して、新しいメスを入れることは不可能でしょう。今日の思想が、すでに観測され、決定されたものだけを取り扱っている限り、決定されたものの順列組み合わせによって変調され増幅された無数の決定事項が堆く積もってゆくだけです。たとえば「クオリア」という「概念」も例外ではありません。
観測と真理
質問 融けてしまうということは、そこで真理というのは、第三項というのはどうなってしまうのでしょう。
融けてしまった次元では、もちろん第三項はありません。量子力学の観測問題に照らせば、第三項とは、わたしたちの意識が創り出した虚構であるといえるでしょう。
質問 多世界では「真理」がいくつもあるとおっしゃっていましたが。
「真理がいくつもある」というのは「真理はない」というのと同じことです。真理は第三項であり、今述べたように第三項は意識が創り出した虚構 fiction です。わたしたちの世界のなかで、真理というものが想定されている。わたしたちは、絶対的な正しいものがあるのだ、と信じている。しかしながら、真理という虚構を創り出すためには、第三項が必要です。つまり真理はわたしたちが創り出している虚構の原因なのです。ところがこの原因が、あたかも人類の目的であるかのようにすり替えられている。真理はわたしたちの足下にあるのに、どこか遠くにあるものであるかのように思い込んで、世界のなかで探し回っている。実は靴の裏に張り付いているのに、一生懸命地球上を歩いて探しまわっているようなものです。閑吟集のなかの一句「なにせうぞくすんで、一期は夢よ、ただ狂え」。世界とはそういうものなのかもしれません。本当は秩序や一定のものなどどこにもない。
海馬と観測
したがって、哲学的な意味ではなく、サイエンティフィックな意味で、観測問題に取り組む必要があります。これは現象学の意識とも違います。観測 observation は、視覚的なものであるとイメージしがちですが、すべての知覚に関わるものです。そこでは、観測している当のシステム自体が観測されているというパラドックスがあります。観測者は自らを観測することによって自らの物理状態に変化をもたらしているのです。つまり観測者は自らに変化を与えつつ観測し続けているのです。これがメンタルなシステムの基本的なパラドックスを支えています。
このことを海馬のシナプス回路について考え合わせてみるならば、CA3(アンモン角の第3)は、CA1に情報を送ると同時に自分自身にも強い情報を送り続けているのです。CA3が情報をCA3自身に再入力しているというのはどういうことを意味しているのか。これを量子論的にはどのように考えたらよいのか。観測しているものそのものを観測し、その観測によって観測結果に影響を及ぼしている。そうすると、影響が及んだその観測主体がまたその自らを観測する。実は宇宙に生命が現われて連綿と進化してきた過程というのは、そういうフィードバック上に生じている物理現象ではないのかな、という風にも思うわけです。
量子論的な考え方と生命の跳躍という考え方
有名なベルクソンの『創造的進化』も、量子論的な進化という観点から読み返すと大変面白いと思います。ベルクソンは、まず物質がある、という考え方をしませんでした。むしろ、まず生命なるものがある、と考えたわけです。生命そのものは見えないものであり、それが物質を利用して自己実現していく過程が生命の進化なのだと考えたわけです。つまり未決定なものが決定されてゆく過程が進化の過程なのだと。そしてその生命の進化の特徴は、徐々に変化していくのではなく、階段状に跳躍していく、と考えました。これが生命の跳躍 élan vital という概念です。
これをただちに古いといわないで、量子論的な考え方で見直してみると、そこには一片の正しい見解が含まれているのではないかという風にも思うわけです。
海馬の機能と無意識の領野
構造主義的な思考が最善の手段であると思っている人類学者、社会学者、哲学者、精神分析家は数多くいます。なぜなら、わたしたちは言葉を話しますし、すでに獲得してしまった言葉の呪縛から逃れることもできません。したがって、構造主義的な思考からは免れることができないと考えてしまいがちです。しかしそうではありません。構造が融けてしまう無意識の領野があるのです。無意識の領野では構造主義が成立しなくなります。第三項排除効果も成り立ちません。さらには、その解明において快楽を得ることもできません。つまり享楽 jouissance は解雇 congédiée されているのです。これがサイエンティストであることの宿命みたいなものです。この一年間で、海馬と量子論的な観測問題について語ってゆくうちに、従来の精神の病に対する考え方が、観測者によって一義的に決定された仮のものであることが明らかになってくるでしょう。
海馬の機能と精神病
わたしがそのなかでも特に言及したいのが、自閉症、スキゾフレニア、鬱と呼ばれている病態についてです。それらの病態が海馬の機能とどのような関係をもっているのか、それらの病態の区別がどんな機能の違いから生じてくるのか、ということが話題になるでしょう。
皆さんが貴重な時間を割いてこの場所まで来られているわけですから、ありきたりの事は言いたくありません。ネットで検索したり、本を読めば出て来るようなことは言いたくないのです。ここに来れば必ず新しいことが聞ける、と思っていただけるように努めてゆきたいと思っていますし、それに応えられるだけの準備はしているつもりです。振り返ればこの10年間、量子論についてお話ししてきましたが、この先もまだ10年分くらいは蓄えがあります(笑)。そんな感じですね。今日はこれで終りにしましょう。
今日はこの一年間やってきたセミネールの総括的なお話と、来年に向けての予告的なお話ができればと思っています。常々思うことは、自分を本当に納得させてくれるものの考え方というものが果たしてあるのだろうか、ということです。同じような問題意識を持っている方もおられるのではないかと思います。今のところ、悲しいことに、どんな説明にも満足できない。疑問が残り続ける。しかし人は、何か基準がないと上手く生きてゆけないような制約のなかに投げ出されている。もし、社会が無重力の宇宙空間のように、特定の大地に踏ん張ることができないようなものであれば、わたしたちはフラストレーションに陥ってしまうでしょう。わたし自身は医学とその実践に携わっていますが、そこには臨床実践を支えている医学的な根拠があるわけです。同じように、皆さん一人一人が携わっているそれぞれの分野の、基準になるような根拠や法があると思います。人は全く何の基準もないところに投げ出されていると、最初は自由を感じるのかもしれませんが、徐々に不安やフラストレーションが増大してくる。人は自分を支えるための理由や根拠を必要としているのです。
わたしたちの基準は生まれてこれまで生きてきた経験や知識によって獲得されています。そして、これらの経験や知識を下敷きにして、この先起こるであろう未来に向かっているわけです。わたしたちは自分が実際に体験したものを疑うことをしません、実感したものは確かなもの、という基準の下に生きてきているからです。ただ本当は、それらの経験というものが、いったいどこまで確かで、信頼できるのかということを改めて考えてみると、その確からしさや信頼の根拠が、実は曖昧であることが分かってきます。それどころ、観測的事実が経験的事実を裏切ったり相反することがあり得る。そういうことが、特に量子力学の分野で顕著に見られるのです。