公開セミネール記録
「セミネール断章」
精神分析の未来形


2013年11月


講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2013年11月9日講義より


講義の流れ〜第11回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜


第11講:「躁鬱病の構造新論」



理化学研究所→NHKの番組バクモン→現実吟味と前頭葉と頭頂葉→メタ認知と科学者の限界→メタレベルの想定とメタを使わずに語ること→レイヤー相互の関係性と重ね合わせ→脳とレイヤー→膜と主観性→主観性というフィクション→鏡像段階と主観/客観→視覚的な騙し取り→世界は二重になっている→愛と憎しみの分配→双極の出現と鏡像段階→セロトニンの関与→セロトニンと海馬→鏡像段階への退行と躁鬱病→超自我と親→psychoseとしての躁鬱病→慢性と急性→躁鬱病は鏡像段階への退行→メモリーのシステムとしての脳→delayとしての情報→脳が補正する→夢の解釈→Der psychisch Apparat→マジックノート→知覚システムと知覚記号→知覚と意識→運動としての放出→知覚と意識のdelay→知覚ー意識システム→内部と外部の決壊→重ね書き→逆流防止装置とΦ→内的8の字とメビウスの帯→罪責感と去勢→原抑圧と母親の不在→一般言語と個別言語→日本語と中間状態→オタク文化と日本→環境ホルモン



脳とレイヤー



 量子コンピュータ実用化の研究がもう少し進めば、脳をニューロンの接合といった古典的な電気回路に喩えるのではなく、量子状態の多様かつ重層的な情報処理の記述として明らかにされてゆくことでしょう。心的な領域の解明においても、従来の階層的なクラスへ「メタ」レベルを導入するというような話ではなくなり、徹頭徹尾「多重」であるという量子力学の知見に基づいた重層的かつ波動的な心的領域の解明が為されてゆくことでしょう。
 「メタ」ではなく「多重」であるということ。「メタ」とはあるクラスの外部を措定する考え方ですが、心的な領域は、そのような古典的メタレヴェルの導入による方法では解明できないでしょう。そうではなく、観測に依存する多重なレイヤー相互の関係性という考え方の導入によって、より脳の機能に近いシミュレーションをおこなうことができるようになるでしょう。Photoshop や Illustrator を使っている方はピンとくると思いますが、様々なオブジェクトをレイヤーごとに編集しますね。そのようなレイヤーが無数に重なり多重決定されてゆくのが心的な領域なのだと考えることでその先に進んでゆけます。
 繰り返しますが、背後や下層で機能するメタのような領域を導入するのではなく、無数のレイヤーの関係性が時間軸に沿って変化している、と想定するのです。ですから、その重ね合わせの可能性は無数にある。 例えば Photoshop では容易にレイヤーの位置関係を変えることができますが、同様に、心的な領域のなかでは、重ね合わせの変化が非常にめまぐるしく生じている、と考えるのです。
 この「重ね合わせ」という概念を心的領域の解明のために最初に導入したのはフロイトです。フランスの精神分析では surdétermination (重層(的)決定)という用語を使います。量子コンピュータ理論を支える基礎事項の一つに「量子重ね合わせ」という概念があります。量子コンピュータの演算様式はノイマン型コンピュータのそれとは大きく異なります。現行のコンピュータでは、高速の振動を発生させる CPU が搭載されており、回路内を駆け巡る電気振動に合わせて 0と 1 を振り分け、0 か 1 かの交通整理をやりながら、それを時間軸に沿って無数に組み合わせて演算をおこなっています。一方、量子コンピュータでは、そのような 0 と 1 の2進法的、スイッチング的なデジタルではなく、0 と1 の中間値も同時に無数に取り得るのです。それにより。従来のコンピュータでは一つ一つ順番に計算してゆかなければない複数の計算も、1回の演算で瞬時に処理ができてしまう。つまり、ノイマン型のコンピュータで百万回計算しなければならないような面倒な演算も、極端なことをいえば、たった一回の演算で済むというようなことも可能になる。おそらく、脳そのものの機能は、ノイマン型ではなく量子コンピュータ的なものであろうと考えられます。
 脳の機能を、ノイマン型コンピュータではなく、量子コンピュータと見做すことにより、脳科学や精神分析の知は未来へと進んでゆくことができるでしょう。
 いうまでもなく、脳そのものの解剖学的な構造も、多様なレイヤーによって構成されています。例えば網膜も繊細なレイヤーの構造を持っています。皮膚もそうです。真皮の一番深い部分に基底層があって、そこで新しい皮膚レイヤーが生成されています。繰り返しますが、ここでしっかりと確認しておかなければならないのは、メタレベルの導入に代表されるような古い思考法を潔く捨て去り、観測に依存するレイヤーという考え方を精神分析へ導入することが重要なのだということです。

膜と主観性



 もう一点はFさんが今指摘された主観性の問題。主観性の問題は、それこそ哲学の歴史と同じぐらい古い歴史を持っています。しかしながら、精神分析的な観点からいうと、主観性なるものは虚構、つまりフィクションです。厳密な言い方をすると、主観性などというものはあり得ないのです。「主観性」という用語じたいが、必要に応じて捏造された用語といって良いでしょう。
 ここではどのように捏造されたのかということについて考えてみましょう。ここではまず主観性を主体と置き換えて考えてみましょう。主体の起源は生命の起源と同じと考えて良いでしょう。つまり遺伝子情報を持つ生命は一つの主体と考えるわけです。その意味では、RNAウィルスもその主体性を持っています。
 宇宙のなかに、生命が生まれて、そこにどうして主体性が必要になったかということについて考えてみましょう。なによりもまず、生命は生き延びていかなければなりません。生命の宿命は、個の内部のレベルにおいても、個体のリプロダクションのレベルにおいても、命を継続してゆかなければなりません。生き延びてゆくということは、環境と生命体とを、何らかの形で区別するものが現われるということです。そこで現われたのが内外を分ける隔壁としての膜 membrane です。この膜こそが、おそらくわたしたちが議論している主観性というものの原初的な始まりなのでしょう。そして実は、それらは主観性でも何でもなく、最初は客観性の集合体なのです。それが区別され、いろいろなアミノ酸が地球上の適切な条件のなかで合成され、アミノ酸相互が接合してタンパク質へと高分子化してゆき、生命体が形作られてゆきます。そして気の遠くなるような時間が流れ、偶然が重なっていったのか、神様の仕業なのか、それはわかりませんが、おびただしい種類と数の生命が住まう地球を作りだしているわけですね。

主観性というフィクション



 主観とは、ひとつのフィクションの謂いなのだということを知っておくこと。そしてわたしたちのフィクションは、何よりもまず初めに「言葉」によって構成されているということ。より厳密に表現すれば「シニフィアン」によって具象化されているということです。フィクションを作りだしているのは何よりもまず言葉。言葉の獲得こそが、すべてのフィクションの始まりなのです。ですから哲学は、哲学する主体の言語的営為として生まれてしまう。現象学者しかり、実存主義者しかり、サルトルあるいはハイデガーも、レヴィナスもそうかもしれません。主観から出発してしまう。そのような誤謬は、ある意味、許されるべき誤謬です。なぜなら人間には自我があって、自我はすでにひとつの主観であると同時にフィクションです。自我から思考が発生すると、どうしても主体 sujet と客体 objet というような、二項対立図式のなかでものを考えてしまいがちになります。なぜなら自我の半分は創造的なものであり、発達の過程において母親との二項関係のなかで形作られたという経緯があるからです。それが精神分析が指摘する鏡像段階という特殊な発達段階です。

鏡像段階と主観/客観



 子供が生まれて半年位経ってくると、「いないいないばあ」に喜んで反応する時期がやってきます。顔を隠しておいて「ばあー」とやると、「ああああ」などと喜んだりする。本当のところは、喜んでいるのか怖がっているのかわかりませんが(笑)。いずれにしても現れたり消えたりする現象に興味を示す段階がやってくるのです。フロイトは「快楽原則の彼岸」という論文のなかで、子供が糸巻きを使って一人遊びをしている様子を報告しています。この例は大変有名で「フォルト・ダー」と呼ばれたりしています。子供が糸巻きをつかって一人で遊んでいる。ベッドの下に糸巻きを投げ入れたり出したりしている。同時に「フォルト」「ダー」と声に出している。つまり、見えるー見えない、現れたー消えた、在ー不在、それを Fortと Da の o/a という母音の対立によって世界の切り分けが始まったところだとみるわけです。フロイトの論文のなかのこの部分の重要性を指摘したのがラカンです。この Fort - Da という対立図式によって世界が切り分けられるということが生じる時期が鏡像段階で、生後6ヶ月ぐらいから生後1年半位の間の、鏡に映し出された自分の姿に興味を持って反応する時期に相当します。

視覚的な騙し取り



 鏡像段階とは、本来無形なものであるはずの「自我」が、鏡に映った身体像のなかに、視覚的、空間的に騙し取られてゆく段階です。つまり自我=鏡に映った身体像という図式が形作られるのです。
 先日脳研究に関するテレビ番組を見ていたら、理化学研究所の研究者たちが紹介されており、ある研究者は時々「自分を客観視するもう一人の自分」というレベルを脳科学的に解明する研究をしているというようなことが紹介されていました。「もう一人の自分」というのは、精神分析的な観点からいえば、鏡像段階の相関関係のことということになります。もちろん脳の研究者は鏡像段階のことなど知らずに発言しているわけですが、鏡像段階の機能として、鏡の向こうに映し出されている全身像、あるいは部分的な像を「対象化できるようになる」ということが重要なのです。そしてこれが人生において、まず最初のフィクションとしての世界への踏み込みになるのです。そこでおこなわれるのは、鏡のなかの像と自我とを同一視してゆくことです。もともとバラバラな欲望の寄せ集めだった自我が、一つの身体像のなかへ纏められてゆく段階なのです。そこでさらに母親の次のような言葉が背中を押す。「ほら、見えるでしょう、○○ちゃん、これ、あなたよ」と。実際、鏡のなかにはママと自分が対で映っている。目の前にいるママが向こう側にもいる。そしてその傍らにいるのが自分なのだとわかると、その姿はまさに自分なんだと再確認されるわけです。

世界は二重になっている



 そこに生じるのは「世界は1つじゃない、同じものが2つある」という経験です。実はこのことを指摘する人に出遭ったことがないのですが、鏡像段階では「世界は二重になっているんだ」ということも体験的に悟るのです。これが鏡像段階の機能の、あまり言われていない、もうひとつの重要な働きです。世界は2つ、つまり鏡の向こう側の自分と鏡のこちら側の自分。つまり自我はその出発点においてすでに引き裂かれているわけです。ではそこで何が起こるのかというと、鏡の向こう側にいる自分というのは、常にこちらを見ているわけです。これは光学的に当り前の話で、これによって常に自分は自分に見られているという鏡像的相関関係が視覚の分野で作られてゆきます。

愛と憎しみの分配



 もう一人の自分が鏡のなかにいる、そういうデュエル(決闘的)な関係性は、母に愛される存在は自分だけである、という幻想を打ち砕いてしまいます。鏡のなかの自分は、自分であると同時にライバルなのです。そこで生まれるのが愛と憎しみがめまぐるしく入れ替わるようなレシプロック(相互的)な関係性です。愛と憎しみ、フランス語では amour と haine です。この二つは、今のわれわれの人間の社会では、相反する感情という風に考えられているけれども、情動という意味では同じなのです。重要なのは、この愛と憎しみの対は鏡像段階で形作られるということです。言い換えるなら、愛と憎しみが、それぞれの像のなかに分配されるということです。鏡のなかから自分を見ている自分に似た人、あるいは自分が、自分を憎んでいる、というように感じることもあれば、自分を愛しているという風に感じることもある。ここに出現しているのは「視覚的他者性」です。ラカンはこのような他者性を小文字のφ(ファイ)を使って表現したりします。

双極の出現と鏡像段階



 この他者性、つまり愛と憎しみが目まぐるしく入れ替わる相関関係、これは二極構造と言ってもよいし、鏡の手前と向こうと言ってもよいと思いますが、ここで注目しなければならないのは双極性の問題です。つまり極が二つあるということ。もうピンときた方もおられると思いますが、今日の話題の双極性障害、いわゆる躁鬱病の精神分析的な病因のルーツは、鏡像段階におけるリビドーの固着、あるいは鏡像段階での何らかの情報処理の破綻や障害が想定されるのではないかということです。

鏡像段階への退行と躁鬱病



 さらに興味深いのは、今ふれた鏡像段階、生後6ヶ月から1年半の間というのは海馬が発達していく段階でもあるのです。愛や憎しみを中心とした対象関係が形作られるわけですが、わたしは躁鬱病の基本病理は、この鏡像段階への退行だという風に考えています。
 そうすると、鬱病でしばしば認められる罪責感がなぜ生じてくるのかが見えてくる。つまり、鏡の向こうの自分は、自分を愛していると同時に憎んでいるわけですから、鏡の手前にいる自分を責めてくるわけです。「お前、あんなことをしてしまったが、それでいいのか?」といった調子です。これが一人の心のなかで生じたものが自責の念です。罪責感といっても良いでしょう。フランス語では sentiment de culpabiité といいます。鬱病の人と話をしていると、繰り返しこの罪責感が出てきます。自分が過去にしてしまったことに対して、取り返しがつかないことをしてしまったと、自分を責め始めるのです。これが昂じると自殺という本当に取り返しのつかない事態が現実に生じます。
 悔やんでも仕方がないことを悔やみ続ける。過去に対して、こうすればよかった、と悔やみ、自分がやったことは間違っていたんだ、と自分を責める。ここで起こっているのは、もう1人の自分が自分に対して叱責している状態です。これは鏡像段階に特徴的な他者廃棄のメカニズムです。そうすると何が起こるか。それはいうまでもなく、自分が自分に殺害される事態、つまり自殺が遂行されてしまうのです。

超自我と親



F氏 通常、フロイトの精神分析では自分で自分を責めるというのは超自我の働きとされると思うのですが。つまり、超自我というのは、フロイト的な説明だと、父親の威厳とか規則みたいなものが内在化されたもので、鏡像段階は超自我が形成される以前の話ですから、そことの違いをどう説明したら良いのでしょうか?


藤田 もし超自我ができていれば死なないのです。超自我は親の権威が内在化されたものですから、その強制力は原則として「死ね」ではなく「死ぬな」という方向に働いています。但し、補足しておくなら、この強制力は言葉によって為されるので、反復の性質を持っています。つまり、この強制力は、反復される言葉によって、象徴的に主体を殺害し続け、それと引き替えに身体は生き延び続けるのです。ところが鬱病においては、そのような逆説的な力が働いていない。言い換えるなら、まだ第三者が介入してきていないのです。そしてこのことこそが躁鬱病の基本病理なのです。
 超自我は「お前、駄目だろう」というかもしれないが、同時に「お前、しっかりしろよ」とも言う。「死ぬな」「しっかり生きていけ」という風に励ますことができる。つまり親の代弁者です。ところが躁鬱病で自殺してしまうケースでは、象徴的な強制力が排除されてしまっている。病者は象徴的なものがあたかもないかのように行動してしまっているのです。ですから行動が直接的なのです。朝起きて「あ、死のう」って直感的に思ったりしてしまう。もしここで「あ、今ここで死んだら○○が困るだろうな」とか「親はどうするだろうか」と考え始めたら、そこへ象徴的な反省が介入して「やっぱり死ぬのはやめよう」という風に抑止力が働くのですが、鏡像段階へ退行してしまった病者は、二項関係のなかに閉じ込められて、生か死かという二者択一を迫られてしまうのです。それが一番の問題です。