公開セミネール記録
「セミネール断章」
精神分析の未来形


2013年9月


講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2013年 9月14日講義より


講義の流れ〜第9回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜


第9講:「サヴァン症候群の精神分析的構造仮説」

サヴァン症候群の人→不全を修復する作業としての補填→母の不在と寄る辺なさ→ハンディキャップを負った人間という存在→母の介護と鏡像段階→生物学的ハンディキャップ→ベルクソンとélan vital→対称性のくずれと欠損→宇宙について語ること→量子力学とミクロとマクロ→大人の言葉で話しかけること→幻覚生成能力→言葉と母→ソシュールと言語を操る能力→微分能力としての言語能力→バイパスを作らざるを得ない要因→男性の方が多いサヴァン症候群→海馬の関与→バイパスと情報処理→右脳、左脳とランガージュ→バイパスとしての視覚映像→ノーマル・シンドロームとサヴァン・シンドローム損傷と回復→ヒエログリフと表音文字→レイヤーの世界ラカンの幻想の式とautisme→歩く道の違い→速読と記憶術→渡辺剛彰と記憶術→速読とサヴァン症候群→通時か共時か→コノテーションとデノテーション→柔軟な考え方を持つこと→仮説について→アスペルガーの人たち→発話に相当する機能→絵画によるラポール→傷に気づくこと



微分能力としての言語能力



 人が言葉を話すことができる能力をソシュールはランガージュ langage と呼びました。この能力は今のところヒトだけに備わった固有の能力と考えることができます。ヒト以外の霊長類にわたしたちの話している言葉を教え込もうとしても習得することはできません。まずは、このランガージュというヒト固有の能力のことを念頭に置いていただきたいと思います。
 さらにソシュールは、世界はあらかじめ分節されているものではなく、言葉の誕生によって、世界の側が切り取られると考えました。つまり、境目もないひと塊だったなにものかが、言語の習得によって、切り取られ、分節され、析出してくると考えたのです。いうまでもなく、生まれたばかりの赤ん坊が虹を見たとしても、それが複数の色で構成されているという認識はないわけです。それが言語の習得によっていくつかの色で構成されていると考えるようになる。つまり、それらの区別は物理世界の側にあるのではなく、言語を話すヒトの側にあるわけです。物理学的な特性について言えば、光の波長は連続的に変化しているわけですから、それを任意に切り取っているのはヒトの側ということになります。
 このような分解してゆくランガージュの機能を、仮に「微分能力」と呼ぶことにしましょう。数学的な意味での微分と考えていただいて結構です。つまり 最初は何ものでもなかった連続的な外界が、言葉の習得によって細かい世界へと急速に分解されてゆくのです。
 インターネットで画像をダウンロードする時にこのような経験をしたことはありませんか。通信速度の遅い回線に繋いでいる時、最初はモザイクのような何だかわからない画像が、データが調ってゆくにつれて、細部が補完され、きめの細かい画像へと変化してゆく。赤ん坊が、言葉を獲得して世界を構築してゆく様は、例えて言えば、こんな感じではないでしょうか。あるいは、極端に目の悪い人は、高台から夜景を見ても漠然とした景色でしかあり得ない。そこで眼鏡を着用すると、細部が補完されて、より精密な世界を見ることができる。
 つまり、ランガージュとは、わたしたちが世界をかくかくしかじかのものであると認定するために機能している一種の「微分能力」のことだということを確認しておいていただきたいのです。

バイパスを作らざるを得ない要因



 なぜランガージュの話をしたのかと言いますと、実はアスペルガー症候群を含めて、いわゆる自閉症スペクトラムの範疇に診断される人たちと接していると、このランガージュが一般とは違った風に機能しているということがわかってきます。翻って、わたしたちが通常言語で分節している世界の狭さを教えてくれていたりします。もしかしたら、世界を分節する能力は、ある意味、彼らの方が上回っているのかも知れないという印象すら受けることがあります。これはどういうことでしょうか。
 車を運転される方は、ある道が渋滞している時に、うまく迂回路を走って渋滞に巻き込まれることを回避した経験をお持ちではないでしょうか。あるいは、幹線と平行して新しい幹線が走っている。例えば、青梅街道と平行して新青梅街道が走っている。目的地は同じなのだけれど、迂回するあるいは平行するもう一本の道ができている。こういう道をバイパスと呼んだりしますね。
 わたしが構造的に考えていることは、例えば、アスペルガー症候群やサヴァン症候群の人たちが見せる特異な才能発現の一つの要因として、脳の発達の途上で、何らかの理由によってバイパスを作らざるを得なかったのではないか、というような生物学的、医学的要因があったのではないかということです。つまり自閉症スペクトラムのなかに、いわゆる知的能力の高い低いは別にして、何らかの形でバイパスを作らざるを得なかったような生物学的な原因があったのではないか、ということを想定するわけです。

男性の方が多いサヴァン症候群



 サヴァン症候群やアスペルガー症候群の症例を詳細に観察してみると必ずある種の欠損といいますか一般的な正常と呼ばれている機能と比較して劣っている部分があることがわかります。例えば、アスペルガー症候群の場合、言語能力と運動能力を分けて行なう知能検査をおこなった場合、優位の差で言語能力が高い結果が出るのです。運動性の知能が言語性の知能に劣っているのです。言い換えるなら、デジタル的な能力は高く、アナログ的な能力は低いのです。そういう特徴が見られます。そしてまた、興味深いことに、男女比で言うと男の方が多いのです。女性は少ない。サヴァン症候群もまた男性の方が多い。女性が少ない。何倍という整数倍でいえるぐらいの差があるのです。これもひとつの生物学的な病因を解明する上でのヒントになるでしょう。大胆なことを言えば、男の子の脳の方が生理学的な変動に弱く、壊れやすいのかも知れません。では、脳が壊れそうになった時に、どのようなメカニズムが働くのか、先に触れた言葉で言えば、どのようなバイパスが形成されるのかということですね。

海馬の関与



 前回のセミネールで、アスペルガー症候群について話をした時にも指摘しましたが、おそらく大脳生理学的な要因があるのです。大脳皮質の奥には、大脳辺縁系(リンビック・システム)と呼ばれる部分があり、その一部に海馬(ヒポカンパス)と名付けられている特殊な領域があります。これまでの臨床経験のなかで、わたしは、この部分がアスペルガー症候群やサヴァン症候群の発現に関与しているのではないかと強く疑っています。海馬は非常に不思議な脳の部分で、胎児の段階から徐々に発達して行く途中で、脳の他の領域相互の関連を作りだしてゆく特殊な働きをしていることがわかっています。そしてその働きは、成人してからも、持続的に機能しているのです。つまり様々な大脳機能相互の連絡網を作り出し、交通整理しているのが海馬なのです。
 胎児が成長してゆくにつれ、様々な身体の組織ができあがっていきますが、これはまるで人類が進化してきた過程を辿っているかのようにも見えるわけです。個体発生は系統発生を辿ると言ったりします。つまり人類の進化の過程が、妊娠中の十月十日で反復されるわけですね。そのなかで脳の神経回路もできあがっていくわけですが、その神経回路が形作られていく時に一つの疑問を抱くわけです。それは形態学的には左右対称な脳なのに、どうして機能は左右で異なっているのだろうかということです。ご存じのように、いわゆる言語中枢は左の側頭葉に位置しています。どうして左右均等に機能が分布していないのだろうか、という素朴な疑問が湧くはずです。どうして言語中枢は左の側頭葉なのだろうか。こういう疑問を抱き、そこから出発してみること。そうするとそこに浮かんでくるのは、右の側頭葉が空いているではないか、という不思議な事実です。このようなところにまず疑問を持たなければならない。右の側頭葉が空いているのです。つまり、結論から言うと、左の側頭葉の神経回路形成不全が何らかの形で生じることにより、右の側頭葉にそれを補填するような場所が作られるということ。これはわたしの推測であり仮説です。

バイパスと情報処理



 とはいうものの、左の言語中枢がまったく発達していないというわけではありません。左の言語中枢が不十分であるが故に、右の側頭葉にバイパスが生じているというわけです。一般に、左脳は知的な処理を行い、右脳は情緒的な処理を行うと言われていますが、むしろ、左右の脳は、それぞれ情報処理の仕方が異なっていると考えた方が良いでしょう。というのも、先ほどランガージュは微分能力であるといいましたが、それは言語の存在を前提としているわけです。つまり左脳では、言語というデバイスに依拠して世界を分節している。ランガージュそのものは、対象を微分してゆくような力ですが、それがたまたま外部から与えられた言語体系ーーラカンは大文字の他者と表現しますがーーによって自己実現されている。それがわたしたちの言語体系なわけですが、右脳ではランガージュに違う道が与えられていると考えるのです。

右脳、左脳とランガージュ



 言語の話を続けると、言語は何よりもまず聴覚システムから取り込まれる情報と視覚システムから取り込まれる情報が、照合され、差異化され、その差異が、言語シニフィアンに固定されることによって自己増殖してゆきます。視覚に障害のある人は、視覚以外の知覚との差異が言語シニフィアンに固定されるのでしょう。ここまでお話しすると鋭い人はピンとくるかも知れません。つまり、右脳では、聴覚と視覚の差異が、言語シニフィアンではなく、視覚シニフィアンに固定されていると考えるのです。つまりランガージュが右脳で活動すると、左脳のような聴覚映像を主体とした言語能力ではなくて、視覚映像を主体とした情報処理さらには世界分節が行なわれるのです。
 そしてこの視覚映像の水準では、時間軸に沿って差異が連続してゆく聴覚映像と違って、同一時刻の空間のなかに差異が形成されます。つまり左脳のランガージュの働きは、通時的、聴覚的、言語的であるのに対し、右脳は、共時的、視覚的、イメージ的であると言えます。さらに、左脳は微分的、右脳は積分的な働き方をしていると考えてもよいでしょう。

バイパスとしての視覚映像



 自閉症スペクトラムの人たちに共通しているのは、何らかの形で生物学的なハンディキャップを負ってしまっているということです。その生物学的なハンディキャップを補填するために、あるいはそれを修復するために、あるいはそれを克服するために、新たな中枢と神経連絡網が形成される。それはもちろん意識的なものではありません。オートマティックに起っていると考えられます。こういうバイパス(図参照)ですね。このようなバイパスの形成のされ方に応じて、あるいはバイパスへの情報の流れ方によって、いくつかのヴァリエーションが生じてくる。つまり、カナン症候群もいれば、アスペルガー症候群もいれば、サヴァン症候群もいる。おそらくそれらには共通する基本的な障害や欠損があり、さらにその障害や欠損を補填するような形で複数のバリエーションが生じてくるのだと考えられます。つまり、それぞれの自閉症には、独自のネットワーク形成が存在している。それは、例えば、補填能力の高さの違いによっても左右されるかも知れません。サヴァン症候群はそういう意味では高い補填能力を示している例ではないでしょうか。

ノーマル・シンドロームとサヴァン・シンドローム



 残念なことに、いまわたしが述べたような筋道で語っている人に未だ巡り遇っていません。また、そのようなことが書かれている本にも出会わない。ここで数学的な関数という観点から話をしてみたいと思います。ーーーホワイトボードに式を書くーーーまずノーマルも一つの症候群ですから、これをノーマル・シンドローム、表わせば、NS=f(x)dx。これは微分式ですね。これに対してサヴァン・シンドロームは、積分式になるので、SS=∫f(x)dx 。これがサヴァン症候群の式、つまり微分なのか積分なのかということですね。積分の特徴について少し触れてみると、コンピュータで Photoshop や Illustrator を使う人はお分かりかと思いますが、レイヤーという考え方がありますね。グラフィックな仕事をするときには、レイヤーごとに操作して、それらを重ねるわけですね。つまりレイヤーが生じるというのが、summation つまり積分関数の水準なのです。それに対し、微分というのはレイヤー上の要素を入れ替えてしまう。あるものをある別のものと入れ替える。そうすると、前のものが消えてしまうのです。わたしたちが普段前頭葉でやっていることです。一時的には記憶できるけれども恒久的なものではない。つまり、一つのレイヤーの上で様々な処理をおこなっているわけです。これに対して、レイヤー相互を自由に行き来することができる、という能力が発達する場合があるのです。多重に重なったレイヤーのなかで、瞬時に上の方も下の方も取扱うことが可能なのです。そういう観点に立って、サヴァン症候群の人たちが示す様々な才能の特徴を見ていると、興味深いのは、千何百何十何年何月何日は何曜日ですか、というような質問に簡単に答えてしまうことができるということの理由が見えてきます。つまり、分厚い日めくりカレンダーが頭のなかに入っている。レイヤーですよ,レイヤー。ですから、本人にしてみれば、計算する必要もないわけで、心的な空間にヴィジュアル化された日めくりカレンダーをパラッとめくって報告しているだけなのです。

ラカンの幻想の式とautisme



 ここで精神分析的な考え方に戻ってみましょう。有名なラカンの幻想の式 $a 、これを分解すると、


$→φ→Φ→A→ーφ→a



左端の斜線を引かれた主体 $ の斜線は、主体は言語で構成された世界からは抹消されてしまっていますよ、ということを表しています。-φというのは視覚映像、イメージとしてのファルス、これは何かというと、幼児の心的世界のなかで母親の場所にあると想像されているペニスのことですね。次の大文字の Φ というのは視覚的なものではなく、聴覚的なシニフィアンですね。人が最初に身体に取り込んだ言葉の断片と言っても良いでしょう。そして大文字の他者 A、これは二番目以降に身体に取り込まれた言葉の総体であり、ごれが語体系を構成し、ひいては人間の創り出している文化の総体と言っても良いでしょう。そして、その文化を貫きながら、主体はどこへ向かおうとしているのか。その先にあるのはマイナスが付いた小文字のファルスです。これは母親の場所に欠如しているファルスのイメージで、視覚的なものです。そしてその彼方に、永遠に引き裂かれてしまって辿り着くことができない懐かしい母親の場所がある。これが小文字の a です。いかなる人間も、その基本的な生のヴェクトルは、斜線を引かれた主体が象徴界を突き抜けてその彼方にある永遠に失われた対象に向かおうとしているのだ、ということを表しています。これが幻想の式、ファンタスムです。
 自閉症スペクトラムに属する一部の人たちの場合、ヴィジュアルな部分においては、おそらくここからバイパスができるのです。で、何らかの処理を受けて、こことかここへ接続される。autisme とは、そもそも寡黙だということですね。寡黙とはどういうことかというと、言葉を使わない、言葉に頼らない、ということですね。自閉という用語には、自分のなかに閉じこもるというマイナスのイメージが付いて回りますが、本当はもうこれはやめた方が良い。例えば「無駄口のない症候群」とかいう風に呼びなおすのはどうでしょう(笑)。この長い歴史のなかで、人類はどれだけ無駄口を叩きながら生きてきたことか。

歩く道の違い



 ですから autisme という事態は、ある意味、わたしたちが見習い、尊敬すべき人間のあり方のひとつなのかも知れません。つまり別の形でのランガージュの構築様式があるのだということ。しかし、今のところ、それを発見して認めるだけの度量もまたわたしたちにはないように見えます。むしろ、そのような人たちを、単なる自閉症という診断基準のなかに囲い込んだり、変わり者扱いしたりしているような現状があります。例えば、大部分の人たちが分かれ道に遭遇して左の道を選択することが常識になっているところへ、右の道を選択する人たちが現われても一向に構わないわけです。歩いている道が違うに過ぎません。ただわたしたちの世界がドミナントになるように、つまり、こちら側の基準で構成されているだけです。わたしたちの世界から見ると、自閉とか名づけたりしていますが、実は脳の使い方が違っているだけなのです。
 ただし、その脳の使い方が違ってしまった要因の一つは、おそらく脳の一部に、おそらく海馬に何らかの機能不全があったからということなのでしょう。