公開セミネール記録
「セミネール断章」
精神分析の未来形


2013年8月


講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2013年 8月3日講義より


講義の流れ〜第8回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜


第8講:「アスペルガー症候群の精神分析的構造仮説」

DSM-Vとアスペルガー症候群→アスペルガー症候群の特徴→イヨネスコの『授業』とアスペルガー症候群→アスペルガー症候群とデジタルな思考→海馬とタツノオトシゴ→海馬と夢→海馬と空間処理→海馬の研究とフランス人→海馬とダメージ→フロイトの一次過程と海馬→海馬の機能不全とシニフィアン→アスペルガーとぶつぎりのシニフィアン→アスペルガー症候群とループを描く自由連想→アスペルガー症候群と自我カナーと海馬のダメージ→サンブランの疑似連鎖と自我→社会規範とアスペルガー症候群→シニフィアンの連鎖とサンブランの疑似連鎖の混同→スキゾフレニアと海馬→アスペルガーとハードウェア→ハードウェアとソフトウェアという二分法の問題→大文字の他者とアスペルガー症候群→個人と集団→日本人の精神構造とサンブラン→大脳辺縁系と量子力学→幻想の式と「見せかけの大文字の他者 Autre semblant」→法の拘束とサンブラン→ぶつぎりの記憶の集積としてのAutre semblant→日本的な心的構造とアスペルガーの違い→「奥が深い」という感覚と日本的なサンブラン→発達障害と日本人→利休とサンブラン→古美術と自我とオタク文化→象徴交換と置き換え→日本の政治家とオタク文化→日仏における腹黒さとロジックの力関係→無自覚な腹黒さ→サンブラン優位の福島原発事故対応→情動優位と日本的心性→社会的規範と個人との関係→言語能力とアスペルガー→想像的関係性と象徴的関係性→アスペルガーと補填→補填としてのAutre semblant →二種類の発達障害→欠損状態と修復の試み→欠損症状と陽性症状→アンリ・エーと幻覚論→補填と補綴→ラカンの『サントーム』と補綴→アスペルガー症候群と罪悪感→量子状態としての海馬→アスペルガーとカナーの修復能力→夢見る海馬→藤田理論とスキゾフレニア→想像的な同一化と象徴的な同一化のすり替え→脳の量子状態→精神分析と薬→バイパスの交通量→修復の努力としての幻想や幻覚→量子論と観測問題→量子論と精神分析→観測の強弱→第一の局所論と量子論→実学としてのサイエンス→海馬とデプレッション→中期以降のラカンと量子論→修復の産物としての文化→修復の運動としての生命→世界の起源と欠損→Why?ではなくHow?



DSM-Vとアスペルガー症候群



 アメリカの精神医学会が作成する DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)では、DSM-Vになってアスペルガー症候群という診断名がなくなり、発達障害のなかに組み込まれてしまいました。余談ですが「固有名を消す」という作業自体、精神分析的に大変興味深いものがあります。ここでは触れませんが「覇権主義と固有名の消去は密接に結びついている」ということだけ指摘しておきましょう。
 この問題はさておいて、アスペルガー症候群の一番の特徴としては「集団のなかに入ってゆけない」という傾向が挙げられます。ここではまず「集団のなかに入ってゆけない」という表現の意味内容(言表 énoncé)とは別に、その表現自体は言語表現行為(言表行為 énonciation)であることに注意しておきましょう。そうすると、ここで考えられるのは言語空間(言表)がそのまま行為空間(言表行為)に直結しているということが重要です。
 アスペルガー症候群の人たちは、集団行動が苦手な反面、一対一の個人的なコミュニケーション能力に長けているようなところがあります。集団の中へ入ってゆけないという特徴について、これを空間的な広がりとして考えるならば、メンタルな空間としての広がりに制限が生じているといえるでしょう。安永浩の「ファントム空間論」に照らして、アスペルガー症候群特有のファントム空間の変容について調べてみるのも興味深いことです。
 ところで、わたし自身が直接関わったアスペルガー症候群の患者さんの数は実はそんなに多くありません。高々5~6人程度です。わたしの臨床経験では一般に言われているのとは違っていて女性が多い。確定診断できない疑いの症例を除くと女性3人、男性2人になります。

アスペルガー症候群の特徴



 アスペルガー症候群の人と話をしていると、いくつかの固有の特徴があることがわかってきます。たとえば、日常のなかでの空間認識のしかたが、わたしたちの通常の空間認識とは少し異なっている。たとえばアナログの時計を見た時の表示時間の認識のしかたが違う。通常、長針と短針の位置をみれば文字盤の数字を確認しなくても瞬時に何時何分かわかると思うのですが、アスペルガー症候群ではそれがうまくゆかないことがあります。文字盤上の区切りのよい場所を基準にして、そこから「デジタルに」数えて結論にいたる。例えば3時23分を示しているアナログ時計を見た時、15分の位置から16,17,、、22,23と目盛りを数えて23分だとわかる、という具合です。つまり長針と短針の位置関係を瞬時に認識できないので、目盛りを数えなければならない。そこで起こっていることは何かというと、全体的な空間把握ができていないということです。ですからデジタルに1個ずつ数えるということをしなければならない。つまり文字盤全体をトータリティとして捉えるのではなく、個々の要素の集まりとして捉えている。言い換えれば発想がアナログではなくてデジタルなのだと言うことです。アスペルガー症候群の人たちの空間の中ではあたかもすべてが1の集合で構成されているかのように見えます。

イヨネスコの『授業』とアスペルガー症候群



 少し話は逸れますが、ウージェーヌ・イヨネスコというフランスの劇作家がいます。彼の作品の一つに Leçon 『授業』という大変面白い不条理劇があります。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、冒頭でガンガンガンガンガンと木に釘を打つ音がして劇が始まります。少しして今度はドアの呼び鈴が鳴る。そこへ女中が出てきて「は〜い、ただいま〜」といいながら、玄関のドアを開けるとそこに若い女学生が立っている。女中が「こんにちは、お嬢さん」と声をかけると「こんにちは」「先生はおいでなりますか?」とハキハキした礼儀正しい返答をする。何をしに来たかというと、そこの家の主人の個人授業を受けに来たのです。そこへ年老いた先生が登場して個人授業が始まる。そこで言語学の授業とか、いろいろな授業をはじめるのですが、まず数学の授業をはじめようということになる。「2+1はいくつかな?」「3」「3+1はいくつかな?」「4」、、、と完璧な答え。では引き算を、となり「4−3は?」と先生が尋ねると、、、「7」と答える。「4から3を引くとはどういうことですか?」と女学生が聞き返す、「4と3とどちらが大きいですか?」と先生、それに対して女学生は「どちらが大きいとはどういう意味ですの、先生?」と切り返し、次第に話は数学原理のような根源的な方向へと向かってゆく。先生はもうこれは厄介なことだとしびれを切らして、ものすごい桁数どうしのかけ算を適当に投げかける。具体的な数字は覚えていませんが、何億何千何百何十何万かける何億何千何百何十何万はいくらだ、というような質問です。すると即座にその子が正しい答えを言うのです。先生はびっくりして「君はさっき足し算も引き算もろくにできなかったのに、こんなに桁数の多いかけ算がどうしてできるんだ」と問い詰めると、平然として「わたしは計算が苦手なのであらゆる種類のあらゆる組み合わせを覚えてしまっていますの」と答えるのです。ここにアスペルガー的な特徴が現われています。つまり思考するのではなく、覚えてしまっているということ。そしてその材料じたいがデジタルなのだということですね。
 余談になりますが、わたしが渋谷ジァン・ジァンで『授業』を見たのは今を遡ること30年前の1983年のことでした。中村伸郎主演で11年間にわたって毎週金曜日の夜に上演されましたが、中村伸郎が体調を崩してからは仲谷昇がその後を継いでいました。わたしが観たのはすでに中村伸郎ではなく仲谷昇と中村伸郎の娘である中村まりこが演じる『授業』でした。少なくとも5回は観たと思います。これをきっかけに金曜日以外もジァン・ジァンに通うようになりました。別役実の演劇やイッセー尾形の一人芝居『アトムおじさん』などは特に心に残っています。
 わたしが不思議に思うのは、『授業』の女学生がアスペルガー的な要素を備えていると指摘した人に未だに出会ったことがないということです。物語の流れ上、教授の異常性の方に目が行ってしまいますが、実は女学生こそがもっとも奇妙な異常性を備えていると思います。

アスペルガー症候群とデジタルな思考



 アスペルガー症候群の人たちは言語能力に優れているんだという研究者もいます。運動的知性と言語的知性を分けて知能検査をすると、アスペルガー症候群の人たちは往々にして言語性の点数が高く出たりします。一方、非言語的な知能では低い値が出るのです。わたしたちが漠然と考えているのとはちょっと違う感じがします。アスペルガーの人は感覚的に優れていて、なかには天才と呼ばれる人がいるのをご存じの方も多いでしょう。坂本龍馬、アインシュタイン、ウィトゲンシュタイン、ビル・ゲイツ、スティーヴ・ジョブス等々、なんとなく感覚的な能力に優れているのではないかと思ってしまいますが、実は彼らの思考はきわめてデジタルなのです。デジタル的思考。わたしはここにアスペルガー症候群の構造的な病理の謎を解く鍵があると考えています。
 では、なぜデジタルなのか、ということが根本的な問題になります。そもそもデジタルとは指折り数える時の「指」という意味であって、非連続なものです。非連続あるいは不連続。その反対がアナログという言葉ですが、どうもアスペルガー症候群の人たちをコントロールしているのは、アナログ的な思考というよりはデジタル的な思考のように見えます。
 なぜデジタルなんだろうということですが、知覚されたものをアナログ化するのは大脳新皮質の機能です。大脳新皮質はわたしたちの意識と関係があるのです。それは「滑らかにする機能」とでもいうべき、わたしたちが得た情報をアナログ化していく機能です。では、滑らかではない情報とは何でしょうか。知覚されたままの、ゴツゴツしていて、荒削りな情報です。それはきわめてデジタルで、記憶や思考の基礎あるいは原型とでも言うべきものです。たとえば雪の結晶が出来る時に核になる塵のようなものです。あるいはマトリョーシカをどんどんどんどんあけていったらその一番内部にある一番小さなマトリョーシカのようなものです。それはおそらく、アスペルガー症候群のみならず、いわゆる発達障害と診断されている人たち、さらには一部のスキゾフレニア、そして双極性障害、そういう人たちに共通する核の部分であるかもしれません。

海馬とタツノオトシゴ



 中学校の理科の授業で、ミョウバンの飽和溶液のなかに糸の先に結びつけた小さなミョウバンの結晶を浸すと、大きな結晶に成長する、という実験をしたことはありませんか?あるいは手作りの金平糖工場へ行くと、小さな丸い砂糖の粒が熱せられた大きな鉄鍋のなかで棘を付けながら次第に成長してゆく様子を見たことはありませんか?最初は小さな砂糖の粒なのですが、加熱された砂糖の入った鍋で揺らしながら回転していくと、だんだん棘が出来て金平糖が出来上がってゆく。この過程が非常に面白いのです。表面が滑らかになりつつ棘が出来てゆく過程です。この過程を脳の発達のアナロジーとして考えてみると非常に面白い。金平糖にも脳にも、それが成長してゆくにあたっての核のようなものがあると考えるのです。様々な病状を示す脳疾患の核になるようなものがあるのかも知れません。その核のようなものを脳という組織の中に見出すとすればそれは何だと思いますか?


N氏 デジタル化?


藤田 たとえばクオーツ時計だとクオーツに相当するもの。


春原 海馬?


藤田 そうです、海馬、ヒポカンパス Hyppocampus です。では海馬とは何でしょうか?海馬、英語で言えば sea horse。


N氏 sea horse って何でしたっけ、イルカ?


藤田 イルカは海の豚ですね(笑)。答えはタツノオトシゴです。この組織はタツノオトシゴにそっくりな形をしている。海馬は大脳辺縁系 Limbic system の一部で、扁桃体、中隔核、視床下部、視床前核、海馬体などで構成されています。意外と盲点ですが、辺縁系のなかにも皮質があります。ちなみに Limbic とは limbusというラテン語から派生した言葉で「縁(ふち)」という意味があります。つまり大脳の縁を構成する部分を Limbic system と呼んでいます。この部分は、個体の発生の過程において、大脳の成長や発達の鍵を握っており、特に海馬は、大脳が一種の神経回路として、言語中枢をはじめ、様々な中枢相互を結びつけ、徐々に複雑な連絡網を発達させてゆく働きをしています。

海馬と夢



 正確に言えば、海馬は海馬体という複合体のなかの一部分を示す名称です。海馬体は、歯状回 dentate gyrus、海馬 hippocampus、海馬台 subiculum、前海馬支脚 presubiculum、傍海馬支脚 parasubiculum、嗅内野皮質 entorhinal cortex によって構成されています。海馬体は機能的にも形態的にも非常に興味深い不思議なシステムです。記憶や空間認識といった機能の基本を作る場所であり、わたしたちの夢を発生させるジェネレーターでもあります。2000年代に入ってからこういう報告がなされています。つまり睡眠時の脳波は速くなったり遅くなったり様々に変化するのですが、そのなかの遅いタイプの睡眠脳波、だいたい5ヘルツから10ヘルツぐらいですが、これが出ている時の眠りのことを徐波睡眠と呼んでいます。この徐波睡眠時に、海馬におけるドーパミンの分泌が非常に活発に行なわれていることがわかっています。つまり夢の基本が作られている場所が海馬なのではないかというわけです。
 まるで現実そのもののようにリアルな夢というのは、実は海馬が作り出しているのではないか。夢の話は検証するのが非常に難しいので、ここではとりあえず可能性の話しか出来ませんが、海馬は何らかの形でわたしたちの記憶や空間認識に関与していることは確かです。精神分析的ないい方をすれば、大脳辺縁系自体が人間の基本的なもの、ラカンの用語で言えば象徴界を省いた残りの二つ、つまり想像界と現実界に関与していると考えられます。さらには、ある種の自律神経的なコントロールなどにも関与していると考えられています。

海馬と空間処理



N氏 先ほどアナログ的なものは大脳新皮質の機能で、デジタル的なものは海馬と言われた、、、


藤田 そうです。


N氏 先ほど言った頭脳的認知力や空間的認知力も海馬が関与していると?


藤田 そうです。海馬は脳のなかでも非常に不思議な部分で、いわば司令塔のような役割を担っています。ここで個体の発生の過程を考えてみます。まず卵子が受精して細胞分裂が始まる。そして細胞分裂を繰り返しながら母の体内で成長していく。その成長過程のなかで海馬は特殊なタンパク質を合成します。それは新たな神経回路の生成や神経接合を促すようなタンパク質なのです。つまり、海馬と側頭葉、海馬と頭頂葉の神経連絡網を促進するようなタンパク質です。ヒトの言語中枢は左の側頭葉にある、と言われていますが、まさにその言語中枢との神経接合を発達させ、神経回路を複雑にしていく促進作用を及ぼしているのも海馬です。もし生まれながらにして海馬に欠損あるいは欠陥があれば、発達途中での言語中枢の回路形成不全や頭頂葉での空間認識の回路形成不全が生じる可能性があります。海馬は、大脳新皮質が、さまざまな現実的な空間処理、意識を介した現実的な空間処理を行なうための基礎的なインフラを支えている組織なのです。

海馬の機能不全とシニフィアン



 今日の話の要点は、アスペルガー症候群、スキゾフレニア、双極性障害等々の精神疾患の根底には、海馬の機能不全が潜んでいる可能性が高いということを皆さんにお伝えすることです。とりわけ重要なのは、わたしたちの言語発達にどのような影響を及ばしているのかという点です。
 先ほどの表現を繰り返せば、まず海馬で荒削りなごつごつした空間認識が作られ、次に意識、つまり大脳新皮質でなめらかにされるという一連の経過が考えられます。さらには、海馬の働きによって頭頂葉と言語野を含む側頭葉との神経接合が促進されて脳の神経回路が複雑化していくプロセスがあります。したがって、もし発達の初期に海馬の機能不全があれば、その後の神経回路の形成そのものに影響を及ぼす可能性が出てくる。精神分析的な言い方をすれば、シニフィアンで構成されてゆく世界が変容し、特異なものになる可能性があるということです。

アスペルガーとぶつぎりのシニフィアン



 アスペルガー症候群の人たちと接していると、シニフィアンの連鎖がうまくゆかないことが多いことに気づきます。そもそもシニフィアンが連鎖するというのはどういうことでしょうか?先ほど、大脳皮質には滑らかにする作用があるといいました。つまりデジタルのブツブツを滑らかにする作用があるのです。つまりシニフィアンの連鎖を作りだしているのは大脳の新皮質なのだということです。ところがアスペルガー症候群ではその滑らかにする作用がうまく働いていないように見える。シニフィアンがうまく連鎖してゆかない。実際、アスペルガー症候群の人に自由連想を試みてもらおうとすると滞ったりムラがあったりします。ムラがあるとはどういうことかというと、全般的な形での連鎖が生じにくくなるということです。ある特定の限定的な領域に関しては連鎖が進むのですが、その連想は一般的な広がりを示さないのです。

アスペルガー症候群とループを描く自由連想



 一般的に、自由連想が進んでゆくと記憶の連鎖的な想起が生じるのですが、アスペルガーの自由連想はあるところでループを描き始める傾向があります。たとえば、砂漠のなかで道に迷った人が何日も歩いているとすでに自分が捨てたものに再び出遭うことがあるということを耳にします。つまり真っ直ぐに歩いているつもりだったのが、大きなループを描いて元の場所に戻ってきてしまうというのです。この「ループを描く」ということこそが自閉症の特徴として考えられます。つまり外部(他者)に向かって連想が進んでゆくのではなく、投げたブーメランが戻ってくるような連想のし方をする。そこでは何かが意識されない形で連想に牽引力を与えています。それは自我です。つまりアスペルガー症候群の自由連想が進みにくくループを描いてしまうというのは、ある意味自我が強固であることを意味しています。ちなみに、通常のシニフィアンの連鎖は、ラカンの定義で言えば、Un signifiant représente le sujet pour un autre signifiant. と表現されます。つまり、あるシニフィアンは別のあるシニフィアンに主体を差し出す(再現代理する)のです。シニフィアンは主体の代わりに機能する、ということです。主体そのものは透明人間のような存在で、シニフィアン無しでは見ることも聞くことも触ることもできないのですから、知覚可能になるためには 主体を再現代理するシニフィアンが必要なのです。

アスペルガー症候群と自我



 アスペルガー症候群では、主体の再現代理としてのシニフィアンの連鎖が起こりにくいと言いました。むしろここでは L’ego représente un semblant pour un autre semblant. とでも表現すべき事態が生じています。つまり「自我は一つのサンブランをもう一つのサンブランに差し出している」のです。ラカンの定義と似ているようで異なっています。そこに登場する代理物はシニフィアンではなくサンブラン(見せかけ)なのです。自我は複数のシニフィアンと連鎖するのではなく、個別のサンブランと一対一の関係を結ぼうとするのです。ここに集団の中に入ってゆくことは苦手でありながら、個人的な一対一の関係は密接に作ることができるというアスペルガー症候群の特徴を解明するヒントがあります。