seminaire201307 of ユーロクリニーク文化部公式サイト

DSCN0563.JPG




公開セミネール記録
「セミネール断章」
精神分析の未来形

2013年7月

講義:藤田博史(精神分析医)

セミネール断章 2013年 7月13日講義より


講義の流れ〜第7回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜

第7講:「【演習】分析哲学者、現代芸術家、精神分析家を精神分析する」

つかみどころのない分析哲学者と現代芸術家→精神分析家の派閥化→ユング派と精神分析→北山修と精神分析→夢の分析と解釈学→精神分析の演習→精神分析家が考えていること→考えることと限定の操作→非限定の操作→北山修の「最後の授業」→精神分析という仮想敵→過去の偉人の固有名→固有名による防衛→固有名を設置する場所→言葉の世界に参入すること→象徴的去勢の生じ方→母子未分化の状態の違い→離乳のタイミングの違い→アナログとデジタルのせめぎあいと共存→粒子と波→半分だけ言えること→吃音研究→アレフの位置とユダヤ教→イスラム教のシニフィアン→分類学について→精神分析家は自らを精神分析家と認める人→教育分析の不要性→転移できないということ→クリスマスツリーが出来るまで→飾り付けの様式の研究→焦点をしぼるという考え方→多重に聴こえる意味→アナグラムと無意識→観測の仕方と世界の本質→量子論と観測→厳密な観測に応じた世界→ゆるい観測に応じた世界→接着剤としての固有名→ソシュールのアナグラムと固有名→晩年のラカン→観測の強さ→クライエントとしての観測者→クライエントが発しているSOS→クライエントは何を望んでいるか→分析哲学と言語哲学と記号論理学→ヴィトゲンシュタイン以降→ラカンの3つの輪と数学者→対称性のくずれ→分析哲学者と観測→分析哲学者と両義性→症状の出元→現代芸術家と芸術→アートとテクネー→自我の自己主張と資本主義との結託→村上隆の場合→写実の軽視→曖昧さと非決定→決定されたものへの嫌悪→非決定な人たちの集団→写実の重要性→精神分析家を精神分析する→精神分析の3つの不可能→ビートルズと精神分析家のポジション→ビートルズの精神分析Bon Anniversaire →精神分析とテクスト分析→フランスと国家資格→国家資格と精神分析家→日本と国家資格→臨床心理士とスクールカウンセラー→国家観の違い→国民主権と天皇→戦後と民主主義→ドイツと日本→本道とバイパスのある日本→切断できない日本人→イデアと国家→天皇と固有名→国の主役でない国民→国民を助けない国


精神分析家を精神分析する

 本物の精神分析家(以後単に「精神分析家」と表記)を精神分析すること、これは不可能 impossible なことです。ただし偽物の精神分析家はこの限りではありません。精神分析家が、精神分析家を、精神分析することは構造的に不可能です。もしできるのであれば、その分析主体(被分析者)は未だ精神分析家とはいえません。
 「精神分析家であること」の定義は、逆説的な表現になりますが、その不可能性において決定されるべきものです。いわゆる「教育分析する」という行為は、実は不可能な行為なのです。精神分析不可能ということこそが、精神分析家である必要条件であると考えて下さい。

精神分析の3つの不可能

 ラカンは、教育すること enseigner、統治すること gouverner、精神分析すること psychanalyser の3つを挙げて、これらは不可能であると述べています。できそうに見えてできないのです。これらはいずれも途中で破綻したり、挫折したり、失敗に終わる可能性を秘めている。
 精神分析における不可能性とは、例えばこういうことです。精神分析の現場において、様々なコンプレックスや症状が出現したり解消されたりした挙げ句、分析が停滞し、それ以上進まなくなってしまう時があります。まるでトンネルを掘っている最中に巨大な岩盤にぶち当たってしまったかのような状態です。すなわち分析の不可能に直面し、分析はそこで停止する時があります。これが根源的な停止である時、つまり言葉がその先に進んでゆくことのできない物質的な領域に到達した時、それまでの分析主体 psychanalysant は、分析主体であることをやめ、分析家 psychanalyste へとシフトするのです。
 例えば、ラカンを分析できた人がいるでしょうか?少し勉強されておられる方なら、フロイトの弟子であったルドルフ・レーベンシュタインがそうだと仰るでしょう。しかしながら、両者の分析関係を詳しく調べてみると、まさに今述べた「不可能」に突き当たっていることが見えてきます。一般には、ラカンとレーベンシュタインの分析関係は「うまくゆかなかった」といわれています。これがそうです。つまり、ラカンを分析する過程において、レーベンシュタインは不可能に遭遇したのです。
 精神分析の創始者であるフロイトもまた然りです。フロイトを分析できた分析家がいたでしょうか?精神分析が不可能であること、それは精神分析家を精神分析することが不可能であることに連結されており、それこそが、精神分析家であることの必要条件になっています。
 つまり、精神分析の領域に入り込んでゆけばゆくほど、実は精神分析家であることを他の精神分析家が認定することじたいが不可能な行為であることを悟ることになります。であれば、むしろこの不可能性を引き受けた上で、自らを分析家であると認定してしまう方法もあるでしょう。そのような場合、精神分析家であるかどうかを裏付けてくれるのは、実際の精神分析行為です。分析主体が治療者のもとで、自らの精神分析を進めてゆくことができる場合は、確かに治療者は精神分析家として機能しているといえます。
 つまり「精神分析家として機能し得る」ということは、いわゆる教育分析を受けたかどうかということとは実は関係がないのです。精神分析家は、教育分析という一種の「徒弟制度」のなかで養成されるものではないということです。もしそのような徒弟制度が肯定しているものがあるとすれば、精神分析というフロイトの遺産をどのように守ってゆくかという流儀に従って個別化していったエピゴーネンたちの「党派性」に他なりません。つまり教育分析によって引き継がれている徒弟制度は、個々の党派の利害を受けて成立しており、本来の精神分析の考え方からは遥かに遠いところに行ってしまっています。今の国際精神分析協会を見てみても、これは明らかに閉鎖的な徒党を形成しており、他の閉鎖的な団体、たとえば宗教団体とか、思想団体とか、軍隊とか、そういう集団を形成する動機と同じ動機を抱えています。

ビートルズと精神分析家のポジション

 ビートルズが来日した時、わたしは小学校5年生の夏休み前のことでした。ビートルズが現れて、世界の音楽シーンが根本的に書き換えられてしまったのは誰もが認めるところでしょう。無論、その前駆となったエルヴィス・プレスリーの存在も無視することはできませんが。興味深いのは、なぜビートルズは他の歌手や音楽グループと一線を画することができたのかということです。そういう意味で、ビートルズの精神分析、これは大変面白い話題です。
 端的にいえば、ビートルズは、そのデビュー以来今日に至るまで、国境、言葉の違いを超えて、全世界の人に対して分析家として機能し続けています。それは何故なのか、どのような仕方によってなのか、このことを探ることで、逆に精神分析家の資格というものが、教育分析などではなく、もっと別のもので規定されていることが見えてくるはずです。そして今し方述べたように、ビートルズを精神分析することは不可能です。ビートルズは本物の精神分析家なのです。

ビートルズの精神分析

 ビートルズの曲と特定の想い出が結びついている頻度が高いのは、リアルタイムでビートルズを聴きながら育った世代でしょう。わたしもその中の一人です。特定の曲を聴いたり口ずさんだりすることによって、個人的な記憶や感覚が瞬時に甦ってきます。たとえばわたしの場合、 For No One という曲がラジオかなんかでかかった瞬間に、フランスで経済的にも精神的にも苦しんで生活していた時代のことが浮かんできます。それは客観的な記憶の想起ではなく、記憶に纏わり付くすべてのものがそこにありありと再現される感覚です。
 ビートルズはおそらくそういう形で世界中の人を精神分析している。もしこの世にビートルズが現れていなかったら、これは様相論理ですけれども(笑)、世界の人たちのメンタリティは、現在のものとは随分違っていたのではないかと思います。ところが彼らは現れた。そしてビートルズは、全世界の人にとって、精神分析家としての機能を果たし続けることになっている。
 そしてさらにいうなら、ビートルズの精神分析家としてのポジションは、すでにジョン・レノンとかポール・マッカートニーとかその構成員に還元することができない何ものか quelque chose に変化しているということです。ですから、ビートルズが解散した後の、それぞれのメンバーの曲は、ビートルズではなく、それぞれのメンバーの曲なのです。それらはもうビートルズではありません。ビートルズの曲が持っているなにものか、それによってわれわれの思考や創造性が刺激され、思想や生き様そのものがダイナミックに変化してゆく。ビートルズなるものは、そういう形で機能し続けているのです。

精神分析とテクスト分析

聴講者 さっき現代芸術家を精神分析するとか、あるいは分析哲学者を精神分析するという試みをされたのですが、そういう発想の前提にあるのは、その人が作品の支配者であったり、その作者がテクストの主体であるという前提のような気がするのですが。

 テクスト分析ということに限っていえばそうですね。たとえばシュレーバーの手記をフロイトが分析する。既に書かれたテクストを分析するというのは、実際の治療現場での分析とは別物です。つまり精神分析的な思考法をテクストに対して行使するという水準です。実際の精神分析では、現前するクライエントを通じて、何かが何かに働きかけて症状を出しているという風に考えるわけです。

聴講者 でもそれもテキストですよね。つまり精神分析家が対峙するものは症状、その症状はやはりテクストなわけであって・・・。

 テクストは症状の一部ではあるが、全部ではありません。そこがテクスト分析と実際の精神分析との大きな違いになります。人が語ることの背後には必ず語られないことがあります。たとえば、動作や表情などはテクストからごっそりと抜け落ちていますね。テクスト分析は、その分、楽なのですが、わたしたちが実際に臨床の現場で、たとえばスキゾフレニアの患者さんや鬱の患者さんに対峙した時は、言葉にされたテクストだけでは、正確な解明に向かうことは困難です。

聴講者 ただわたしが言っているのは精神分析家がそういった非言語的な仕草であるとか、服装であるとか、そういったものも考慮に入れる、分析の対象にするのであれば、さっきも申し上げたように、それらが象徴的な系のなかに参入することによってはじめて読み得るものとなるのではないですか。

 動作は、それじたいが象徴的なものである場合もあります。ヒステリーの身体症状などがそうです。一見、象徴的なものではない。それを解明する方法は、フロイトがいうように、無意識には無意識を対峙させるしかありません。ですから先ほど「精神分析家は意識、無意識、前意識を平等に対峙させる」と申し上げた理由は、想像的なものに見えても実はそうでないものが沢山あるからなのです。ですから、発話された言語や書かれたテクストだけではなく、クライエントが出している全表現を、一旦無意識のなかで捕捉して保持しておかないと、分析が先へと進んでゆかなくなります。身体表現はすでに言語であることがあり、また逆に言語表現が実は身体表現であることもあります。ですから、分析家は、時間の流れのなかで、捕捉した情報を、保持しつつ、それらが有機的に結びつく様子を客観的に処理してゆかなければなりません。そうしてゆかないと、抜け落ちてしまうもの、取りこぼしてしまうものが沢山生じて、治療がうまくゆかなくなってしまいます。
 確かに、言語に注目する、というのは精神分析の歴史のなかの一つの大きな流れであったし、実際に主流と考えられているという現実はありますが、わたしはあえてそのような常識を一旦リセットしようと考えています。
 ここで誤解されてはならないのは、だからといって、感覚的に相手の感情を理解する、といったレベルの話ではないということです。そうではなく、わたしたちが一見、象徴的なものだと認定し得ないものでも、実は象徴的なものである可能性があるのだということです。それを事後的に知るためには、ともかくも、治療現場での出来事を、分析家の記憶のなかに録画録音しておかなければなりません。そして、それら一連の出来事が、分析家の心のなかで事後的に再構成されるのです。フロイトは、その日におこなった分析の記録を、当日の夜に記憶を想起しながら書き綴ったそうです。まさにこれが精神分析家がおこなわなければならない記録のあり方です。ですから、ラカンが強調したことを真に受けたり誤解したりして、テクストの情報のみで分析を進めようという人がいますが、これは誤った精神分析の考え方であると見なすべきでしょう。分析中に取りこぼしたものは永遠に戻ってきません。例えばジグソーパズルで、すべてのピースがそろっていなければ、それを完成させることはできないでしょう。特に、今まで捨て去っていたもののなかに、重要なピースが入っているのだとすれば、なおさらです。つまり、クライエントが発している情報をもとに心的な問題点を事後的に再構築してゆくためには、取り敢えず、分析家の側ですべての情報を経時的に保持しておく必要があるのです。