公開セミネール記録
「セミネール断章」
精神分析の未来形


2013年6月


講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2013年 6月8日講義より


講義の流れ〜第6回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜


第6講:「量子論的精神分析」

量子論の基礎→「量子論的な精神分析」という考え方→「精神分析的量子論」とシュレーディンガー方程式→エヴェレット解釈とコペンハーゲン解釈→多世界解釈と複数の世界→アハラノフによる「弱い」観測と「強い」観測→量子論の原則と心的な構造→可能性の塊としての無意識→多世界理論と無意識→現代物理学と精神分析→昆虫図鑑とDSM→第一の局所論と量子論→「弱い」観測と前意識→神のポジション→対象のなかの観測者→同期すること→無意識に無意識を対峙させる→精神分析と観測→自明を作らないこと→概念とヒポテーゼ→解釈と記述→要求へのレスポンス→知覚ー意識システムの障害としての精神症状→脳の量子状態と障害→精神分析の可能性→ラカン派という症候→心的外傷と世界のひずみ→固着と世界の構成→量子論的思考法と精神分析的思考法の出会いの可能性→解釈と享楽→数学化の道→言葉の自己言及性→現実界到達の可能性→無意識と構造主義→フロイトの解釈学としてのラカン→ロールシャッハと多世界解釈→平等に漂わされる注意→仮説と定理→観測問題と知覚ー意識システムの構造→遺伝子の研究→もの表象とこと表象→量子論と認識論→フロイトと心的装置→幻覚の構造と現代の思想

「量子論的な精神分析」という考え方



 いうまでもなく、現代物理学を理解するためには数学的な素養が必要です。特に量子論においては、量子の確率分布を記述するのは数学であり、このような数学的確率計算を経由して、粒子や波の振る舞いを記述することが可能になります。量子論の基礎は、20世紀の前半、1925年のヴェルナー・ハイゼンベルクの行列力学、および1926年にオーストリアの物理学者アーウィン・シュレーディンガーが提出した波動方程式によって築かれたといってよいでしょう。前者をハイゼンベルクの運動方程式、後者をシュレーディンガー方程式と呼んでいます。物理学は哲学とは違い、数学的な手法によって、いわば数学の式を解くような形でわたしたちが住まう物理世界の様々な出来事を記述するということをするわけです。ここでそのような話をしてもよいのですが、ここにおられる方の大部分は量子論について勉強されたことがないと思いますので、それはあまり意味のないことでしょう。というわけで、今日はできる限り、方程式や物理定数といった予備知識無しで、量子論的な精神分析という考え方を理解していただけるように説明してみたいと思っています。

「精神分析的量子論」とシュレーディンガー方程式



 この先話を進めてゆくと、おや、これはむしろ量子論的な精神分析というよりも、むしろ量子論が精神分析に取り込まれる可能性があるぞ、というようなことにもなるかもしれません。「精神分析的量子論」というわけです。というのも、現代の量子論というのは、数学的な考え方というよりも、むしろ認識論に近くなってきている感があります。量子論を思考している意識的観察者というものが、宇宙のなかでどんな風に位置づけられており、どのように作用しているのか、というレベルの話になってくると、実は量子論の方が精神分析のなかに取り込まれる可能性がかなり高くなってきます。


 話を少し戻すと、「シュレーディンガー方程式」の言わんとしていることは「わたしたちが住まう物理世界は一定の関数に従った波動で構成されている」ということです。その場合は粒子ではなく波動です。様々な振動数を持った無数の波動の混在として物理世界が成り立っていると考えるのです。そしてすべての波動は一つの方程式を満たしている。それがシュレーディンガー方程式です。この方程式の最大の特徴は、それぞれの波動はそれぞれの仕方で振動し続け、決して一つの波動の束(波束)に収斂 reduce しないということです。言い換えると、様々な波動のあり方は併存して持続している、つまり可能性として共存している、ということになります。ご存じのように、ここから生まれてくるのが量子論的な多世界という考え方です。にもかかわらず、わたしたちが住んでいる物理世界は、様々な可能性の共存というより、すべて一義的に決まっているように見えます。見渡された世界に曖昧なものは無く、しっかりとそこに、つまりわたしたちの「外部に」固執しているように認識されます。これはシュレーディンガー方程式の性質を考えると矛盾しています。なぜならシュレーディンガー方程式では波束は収斂しないからです。

エヴェレット解釈とコペンハーゲン解釈



 量子論が発展継承されてゆくなかで、1950年代に一人の天才学生が登場しました。若干20歳の大学院の院生だったヒュー・エヴェレットです。当時、彼はシュレーディンガー方程式を様々な局面で適用しよう試みていましたが、波束の収斂を想定しているコペンハーゲン解釈 Copenhagen interpretation では世界をうまく記述できないことに拘りを持っていました。コペンハーゲン解釈というのは、たとえば光に喩えていうと、太陽からさまざまな波長、さまざまな振動数の光が放出される。それがなにか物質的なものに反射する。そしてわたしたちがそれを意識で認識する。その時に波束が収斂する。さまざまな振動数の束が一つの振動数に収束する。一つに収束し、定まるということが、とりもなおさず一義的に定まった対象を意識するということになるという考え方です。これがコペンハーゲン解釈。


 つまりわたしたちが観測する以前の物理世界は、無数の可能性のかたまりに過ぎない。その可能性の塊のなかに、わたしたちが意識を以て参入することで波束が収斂し世界が一義的に定まる。これがコペンハーゲン解釈。実際にわたしたちが住んでいる世界はそういう風に出来ているように見えます。例えば、今、わたしの目の前にはレモンティーのペットボトルがあります。これは皆さんやわたしの意識において波束が収斂しているから、ここに一つの個物として観測されるわけですね。もしこの波束を収斂することができない意識というものがあるとすれば、このペットボトルの存在というものもあり得ないわけですね。たとえば波束を収斂させる器官を持たないなめくじがいたとしますね。このペットボトルの隣になめくじがいっぱいいても、彼らにとってはペットボトルの存在自体がないわけです。つまり、存在というのは、アプリオリなものでもなく、わたしたちの意識の外にあるものでもなく、常にわたしたちの意識との相関関係のなかで決まってくるものなんだという考え方ですね。ですから、コペンハーゲン解釈は「すべての対象は一義的に決まっているように見えるという経験に照らして、恐らくそうなんだろう」という常識に根ざした解釈だったわけです。ところが一大学院生のエヴェレットがシュレーディンガー方程式の本質を尊重して、多世界的な解釈を提唱した。これは量子論の歴史のなかの一種のスキャンダルだったわけです。

多世界解釈と複数の世界



 繰り返しますが、シュレーディンガー方程式を厳密に解釈すると波束は収斂しないのです。たとえば太陽から放出される光。そこには様々な振動数の電磁波が、そのまま振動し続けているのだということですね。そして、限定的な知覚器官しか備えていないわたしたちは、その限りある機能に拘束されたまま、無数の可能性のなかの一部を選択しているに過ぎません。ですから、別の可能性を選択していれば、またその世界の在り方があり得るでしょう。複数の世界が共存しているというエヴェレットの考え方です。英語では many-worlds interpretation と呼び、日本語では多世界解釈といいます。


 わたしたちがこの世に生まれて来て最初に体験した世界、最初に見た世界はどうだったのでしょう。それは一つの可能性のかたまりであり、未だ何ものでもない世界だったのではないでしょうか。その後、わたしたちは様々な体験を記憶し、習得してゆきます。感覚器官、運動機能を駆使しながら、最初はベッドの上で手足をバタバタさせ、泣き叫ぶことしかできなかった乳児が、次第に身体感覚を養い、這うことを覚え、歩くことを覚え、情動を抑圧することで言葉を獲得し、さらに様々な経験を習得しながら、現在のいわゆるノーマルな大人とかノーマルな人間と言われる状態になっているのですが、これは既に外部に用意されていた様々な情報を取り入れた結果なのですね。ですから「結果として」わたしたちが何かを観察する時には、そこに対象物があるのは当り前、世界が斯斯然々のものであるのは当り前、全ては当たり前ということで構成されてしまっているのです。もしそうでないとしたら、とても生きてはゆけません。「今日の信号は赤はどういう意味になってる?」「あっ、今日は行けっていう意味になってる」とか(笑)。今日はどころじゃなくて「今現在、赤はどういうことになっている?」「赤は注意しろになっている」とか。刻々とその自明性 évidence naturelle が壊れていったら、わたしたちはこの世界に安住できなくなります。ですからわたしたちが生れて今まで育ってきて、斯斯然々のものであると認識している世界は、実は、取り敢えず自明性という虚構 fiction で構成されている仮の世界なのですね。


 ですから、現前する世界を、これが世界そのものなのだ、とか、これがまさにこれなのだ、と信じてしまうと、物理世界が仕掛けている罠に完全に騙されているということになります。そういう観点から振り返ってみると、何と驚くべきことに、20世紀には一世を風靡した現象学という考え方ですら、このアプリオリに騙されてしまっていることになります。なぜならば現象学は「意識」を認識の拠り所にするわけですが、裏を返せば、意識そのものは疑いようのないものであるという素朴で無根拠な措定が先行しているのです。ところが現実には、対象を観測する意識のあり方自体は、極めて多様で相対的なものですから、その相対性に依存している現象学もまた相対的なものにならざるを得ないのです。ですからサルトルが一生の大半を使って論じ続けたことも、誤解を恐れずにいうならば、ひとつの偉大なる魂の努力ではあったとしても、それが真実を言い当てているのかといえば、残念ながらどうもそうではないらしいということになります。更に誤解を恐れずにいうなら「転回 die Kehre」以前のハイデッガーも同様です。