セミネール断章 2013年 5月11日講義より
講義の流れ〜第5回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜
第5講:「精神分析の数学化」
精神分析と精神分析学→ニーチェとフロイト→フロイトの名誉欲→名誉欲と創作のエネルギー→ブロイアーとヒステリー研究→フリースへの手紙→シャルコーの授業→夢の解釈→夢事象の心理学→心的装置と表層→記号という発想→知覚と意識→知覚ー意識システム→夢と舞台装置→現実というテーブルクロス→夢と幻覚→夢と覚醒時の意識→記号と言語学→シニフィアンと記号生成→人間固有のランガージュ→アスペルガー症候群診断の画期的な方法→ランガージュの病い→精神分析の数学化と言葉→精神分析と人間の欲望→欲望の郵便配達人→欲望の玉突き→埋葬されたシニフィエとしてのシニフィアン→ハイパーテクストと象徴表面→辞書の旅→「天は人の上に人を作らず 人の下に人を作らず」→不完全性定理と父の名→説明概念としての仮説→メタファーとしての世界→第三項排除効果と精神分裂病→治癒の試みとしての妄想→クロッシングハーモニー理論の実践→あらためて幻想の式について→ユニバーサルな幻想の基本構造→宗教と幻想の基本構造→ユニバーサルでない日本の幻想→龍安寺の石庭とサンブラン→文字と日本人→ラカンの幻想の式とフロイトの用語→日本的な幻想の構造→フロイトの第二の局所論とラカンの幻想の式と日本人の幻想の式→ユニバーサルでないバイパスとユニバーサルな本道→ディズニーワールドと妄想形成→見せかけとオリジナル→盗作問題と日本人→幻想の式と欲望→欲望の分析→他者の欲望→欲望の玉突きとその外部→家系図と欲望→登場人物の欲望関係→騙されないこと→常に疑うこと→検証すること→ラカン理論と臨床の実践
ユニバーサルな幻想の基本構造
「斜線を引かれた主体 $ が永遠に失われた愛の対象 a を求めて世界を構築している」というのが人間の幻想の基本構造です。これはユニバーサル。言葉を話す人間のすべてに当てはまる。
$ーφーΦーAー-φーa
わたしたちはここ A だけ見ているのですね、ここだけ。この大文字の他者(A =le grand Autre )のなかでさまざまなことが起こるわけです。結局人間の作り出しているすべての文化、価値、貨幣経済、何らかの組織、すべてはこの A なのです。あらゆる学問は、この内部で処理されているのですね。精神分析に携わる人がまず知っておくこと、それは「わたしたちの構築している世界は、幻想のなかの一部として構成されている」ということです。つまりわたしたちがそれと知り得ているのは一部なのです。このことを知っていること、それが重要です。
その陰には、下敷きになっているエスバレ $ がいますよ、そしてそれは一番目のシニフィアン S1、これは永遠に象徴的なもののなかに姿をあらわすことはないけれど、このなかに潜んでいる。そして具体的な世界が構築されている。では、なぜわたしたちはそういう具体的な世界を構築しているのでしょう。それは、この世界が成立した時に失ってしまったものを探し求め続けているからなのです。このベクトルが人間の幻想を具象化しています。
宗教と幻想の基本構造
例えば、ユダヤ教はこのことを暗示しています。アレフという原初的に発音できない音がある。ユダヤ教では、通常意識することのできない S1=Φ を示唆する領域が組み込まれている。
また、イスラム教では、神を図像化することが禁じられています。モスクを訪れてみると、壁面にびっしりと文字が描かれています。あの文字は精神分析的にいえば大文字の他者 (le grand Autre)です。この A を強調することによって、暗にその背後に隠された Φ を予感させている。つまり、イスラムの教えは隠された Φ によって支えられているのです。イスラム教徒の持っている「底力(そこぢから)」は、まさに文字通りの意味で堅固なファルスに支えられているからなのです。
キリスト教もそうなのですけれど、キリスト教ではイエス・キリストという具体的な人物で象徴されていますが、キリストは Φ ではなく、A のメンバーです。こんなことをいうと何ですが、元大工のおっさんです(笑)。ですからキリスト教における Φ とは、具体的な人物であるイエス・キリストの背後に控えている何ものかなのです。わたしたちの幻想は、このような形で「神」の位相を準備しているのです。
ユニバーサルでない日本の幻想
ヨーロッパで暮らしていて、日本に戻って来た時に感じるのは「偽物の世界に戻ってきてしまった」という何ともいえない気持ちです。本物そっくりだけど本物ではない。たとえばこのテーブルには木目がでてますよね。でもこれ印刷ですよね。本物の木目ではない。ラカンはこのような見せかけをサンブランと呼びました。日本に戻ってきて目に飛び込んでくるものの殆どすべてがサンブランなのです。その凄まじさは圧倒的です。ロラン・バルトの『記号の帝国』を捩って、ラカンは日本のことを『サンブランの帝国』と表現しています。つまり本来ならば大文字の他者として意味を生成してゆく世界のかなりの部分が、日本ではサンブランで構成されているのです。サンブランというのは意味生成に関与してこない、それだけで何か意味があたかもあるかのように振舞う「見せかけの他者」なのです。
龍安寺の石庭とサンブラン
卑近な例としては龍安寺の石庭。この有名な石庭は、石とその周りの苔生した僅かな土と白砂で構成されています。この前に座った人たちは、そこから得たインスピレーションを自由に語ります。宇宙だとか、心のなかだとか、社会を表わしているとか、色々と語り始めます。僧侶は「静かにそこで心を鎮めているとこれが何であるか見えてくる」みたいなことをいいます。ここで生じているのは自我と対象の一対一の関係です。第三者の入ってくる隙がない。自我にとっての対象の意味がそこで構成されます。これはきわめて個人的かつ個別な体験であって、他人と共有することは原理的に不可能です。こういう了解の仕方を与えてしまうもの、これがサンブランなのです。もう一度サンブランの特徴を繰り返すと、まず自我と一対一の関係にあること、他人に伝達不可能だということ、つまりサンブランは他のサンブランへと連鎖しない、つまり意味生成に関与しないということが最大の特徴です。「ああ、わかる、わかる」的な了解の仕方がありますが、これは典型的なサンブラン的了解です。サンブランには自我が投影されるわけですが、このことを押さえておくと、日本の文化では、このサンブランが大文字の他者の中にかなり混入していることが見えてきます。わたしはこのような他者のように振る舞うサンブランの領域を「見せかけの大文字の他者 Autre semblant」と呼んでいます。
(ホワイトボードに書く) As=Autre semblant
昨年、わたしがラカン協会のワークショップで話をした時に使ったいくつかの図があるのでお見せします。
文字と日本人
まず「フロイト的なもの la Chose freudienne」について説明します。
これはフロイトの『夢解釈』のなかの夢事象の心理学の章で紹介されている何枚かの図に基づいています。有名な心的装置の図です。この装置の向かって左側に心的装置に刺激が入ってくる矢印が書かれているのですが、心的装置の外部にあって、心的装置に刺激を与えているなにものかをラカンは「フロイト的なもの」と表現しています。
その「フロイト的なもの」というのは、たとえばカントが「もの自体 das Ding an sich」と呼ぼうとした領域に類似しています。ラカン的にいえば「現実界 le réel」です。先ほどの幻想の式でいえば「対象a objet petit a」がこれに相当します。この 対象 a に「日本的なもの」がどんな形で関与してくるかということを考えてみます。ちなみにラカンは、大胆にも 小文字の他者 a を大文字の L で置き換えて日本的な心性の説明を試みています。そして、これも大胆ですが、日本人には欠如がないみたいなことをいっています。
L は Lettre の頭文字、つまり文字を表わしています。ラカンは、日本的な心性においては、欠如が文字で補填されていると考えたのです。なるほど、いわれてみると、日本人は文字を見たり、書いたりすることで安心するようなところがありますね。誰かの発表でプリントが配られると、発表者の方を見ずに、ひたすらプリントの上に目を落としている。これは変な現象です。当人が目の前で説明しているのだから、その人の話を聞けばいい筈なのにも拘わらず、殆どの人がプリントを読んでいる。日本人にとって文字は一つの餌なのです。つまり日本人の目を惹くためにはそこへ文字を書き込めば良いのです。すると自動的に文字へと注意が向く。つまり文字への備給が非常に強いわけです。そしてこの文字こそが、先ほど触れた、自我との一対一対応でその意味が決まってくるサンブランに他なりません。ですから日本人の幻想はおそらく objet petit a の位置にサンブランが填まってくるだろうと。つまり日本語における欠如はサンブランで補填されているのです。
ラカンの幻想の式とフロイトの用語
以上のことを踏まえて幻想の式を改めて描くとこういう形になります。
この幻想の式を見てすぐに思い浮かべなければならないのは、生の欲動と死の欲動の二つです。幻想の式を、左から右に向かうのが生の欲動、逆に右から左に向かうのが死の欲動です。幻想を分解した式がここに書いてあります。幻想の式は通常 $◇a と書きますが、これを分解すると、$ーS1−S2 ーa となります。さらにこれを書き換えると、$ーΦーAーa となるわけです。つまり、幻想の式を見たときに、ここまで分解して頭のなかに瞬時に思い浮かべることが必要です。この幻想の式のなかで欲動の運動は左から右、右から左へと両方向へ作用します。このことが重要です。左から右に動いていく心的エネルギーが世界を構築してゆくエロスであり、右から左へと作用するのが世界を分解してゆくタナトスの方向です。
ここで幻想が構成されてゆく様子を時間軸に沿って見てみましょう。そもそも幻想の式の中では別個に書かれている S と petit a は一つのものでした。いってみれば母子未分化の状態がそれに相当します。そしてこれが両極へと引き裂かれてゆく。まだはっきりと分かれてはいないがそのような力が働き始める段階、これは鏡像段階よりも以前の段階です。これを精神分析では前エディプス期と呼んでいますが、メラニー・クラインはこの段階の研究に力を注いだ人です。そして鏡像段階に入ると、大文字の S、これはまだ斜線を引かれていません。一つのものが二つの極へと分かれてゆく、つまり大文字の S と小文字の petit a が出現し、引き離されてゆくのですが、これは両極の間にイメージとしてのファルス(想像的ファルス)が明滅しているような状態です。つまり想像的ファルスは欠如と非欠如を繰り返している。想像的ファルスが、現れたり消えたり、プラスになったりマイナスになったりして、非常に目まぐるしく入れ替わる状態になっている。そこへ大文字のファルスが割って入る。つまり象徴的な去勢が生じて、この危うい関係に終止符を打つ。式でいえば、小文字のφが左右に引き裂かれて真ん中に大文字の Φ が入ってくるということになります。
以上を考慮して幻想の分解式を書いてみましょう。エスバレ $ から小文字のファイ φ が繋がって、そこから大文字のファイ Φ になって、大文字の他者 A になって、大文字の他者からマイナスのファイ ーφ になって、小文字の a に繋がっていく。だから $◇a を見たときに、ここまで瞬時に分解できるようにしておくことが肝要で、これが臨床に役に立つのです。
これが基本的な式になるわけです。
$◇a を見たら、すぐにこれら6つの要素について思い浮かべるのです。きちっと順番で並べられるかどうか。そして現実界 R、想像界 I 、象徴界 S 、想像界 I 、現実界 R、という順になっている。つまり両端に R が来ています。フロイトの用語に置き換えるなら、φ が自我 le moi に相当する。これは想像的な自我です 。そして大文字の A に相当するのが超自我 le sur moi です。さらに -φ が理想自我 le moi idéal に相当します。その理想自我の彼方に小文字の a がある。このことは非常に重要です。紙に書いてトイレに貼っておくのがよいと思います(笑)。
日本的な幻想の構造
わたしが提案している日本的幻想の構造的特徴は、想像的自我に見せかけの他者が接続されているところにあります。つまり φ にAs が接続されているのです。
先ほど「日本に戻ってきて目に飛び込んでくるものの殆どすべてがサンブラン」と表現しましたが、これは日本人の幻想の中に、自我からΦへ向かう道の他に、As へと接続される道があるということです。日本には偽物が多いというのは、この枝分かれによって生じている見せかけの他者 As があるからです。φーAs という連鎖は、対象の価値や意味が想像的自我との二項関係の中で決まるということを表わしています。つまり本来 A に隠喩作用を及ぼしている Φ を経ていないのです。φ が直接 As に接続されることによって、世界が自我との一対一の関係の中で意味を持ってくるようになるのです。こうして構成されてゆく見せかけの世界は、自我との関係においてのみ意味を持つようになり、Φ の隠喩作用を受けた客観的世界とは別に、自我の投影による独自の世界が構築されることになります。この時世界は自我との関係においてのみその意味を持つようになります。
ここでもう一度幻想の式に立ち返ると、本来の流れのなかに横道(バイパス)が入る形になっていることがわかります。つまり通常の幻想は $ーφーΦーAー-φーa となっているけれども、日本的な幻想の場合は $ーφーAsー-φーa という Φ を回避した流れがある。
フロイトの第二の局所論とラカンの幻想の式と日本人の幻想の式
それをちょっとまた組み合わせて直してみると、一つのサーキットを作っていることがわかります。フロイトの第二の局所論に照らすと次のようになります。
aー$ がエス Le Ça 、-φーAsー-φ が自我 Le moi、AーΦ が超自我 Le surmoi に呼応しています。したがって、日本的幻想の特徴は、他者のサンブランがあたかも大文字の他者のように振る舞ってしまうところにあります。
逆にいえば、エスのなかでうごめいているのは斜線を引かれて象徴界から抹消された主体と永遠に失われた愛の対象、これが無意識的エスのなかに格納されている。一方、わたしたちが自我あるいは自分と呼んでいるのは、実はプラスとマイナスの二つの想像的ファルス、メラニークライン的にいえば(笑)良いファルスと悪いファルスとでも表現できるような、その両者を見せかけの他者が結びつけている。つまり見せかけの他者は、愛と憎しみが目まぐるしく交代する関係性のなかへ入り込んで自我を代理している。そしてその自我をコントロールする審級として超自我すなわち大文字の他者と大文字のファルスがある。
以上は精神分析の数学化 mathématisation の一つの試みとして位置づけられるものです。そしてこのような数学化の試みがあってこそ、捉えがたい人の心を可視化し、さらには操作し、変形してゆけることになります。どんなに文章で人間の心を叙述してもこういう叙述や変形はできないでしょう。
ユニバーサルでないバイパスとユニバーサルな本道
聴講者 日本人にとって「からごころ」といわれているものが本道だとすると、日本人が日本的なものとみなすものがバイパスであると。その場合、「からごころ」的な本道があるからバイパスというのがあり得る。バイパスだけではやっていけないですよね。
藤田 そうですね。でも、バイパスが本道みたいになってしまうことがありますね。旧青梅街道の交通量より新青梅街道のそれの方が遥かに多くなっているのと似ています。しかしながら旧道は車の通りが少なくても、その道はちゃんとあるわけです。As を経由するバイパスの特徴は、自我との一対一関係において意味や価値が生じているところにあります。ここが重要です。ユニバーサルではない道、たとえば日本で盛んなサブカルやオタク文化がそれに相当するでしょう。オタク文化の特徴は、一般的な意味生成ではなくて、自我にとっての意味生成になっているところでしょう。例えば自我の好みの表明「これいいよね!」というきわめて個人的な印象表明が、一般的な価値の振りをして流通しはじめるのです。これに対して「どうしていいと思うの?」と尋ねると誰にでも通用する論理的な説明ができない。むしろそういうことを放棄している。「おれの推しメンはこいつなんだよね」といった場合には説明できなくてよいのです。サブカルやオタク文化は、このような想像的自我に直接連結された見せかけの他者によって具象化されているように見えます。サブカルやオタク文化に嵌まっている人にとって、それは自我の好みの問題であるのだから、理屈はどうでも良いのです。自分でもどうしてそのような好みが生じているのかはっきりしない。そこへまことしやかに説明してみせるサブカル評論家が現れて、彼らの心を代弁しているかのような振りをする。これもまた見せかけの他者なのですが、これが見せかけの他者であるだけに、容易にサブカル的自我は接続されてしまう。これはいってみれば見せかけの他者の分けの分からなさに対して現れたもう一つに見せかけの他者なのです。つまりサブカルを解説する批評家そのものがサブカル的心性を持っているということになります。両者に共通しているのは、想像的自我が大文字の Φ を経由せずに、見せかけの他者へ連結されているところにあります。そして残念ながら、わたし自身は、自分の中のどこを探しても、サブカルやオタク文化に対する親和性を見つけることができませんでした。