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公開セミネール記録
「セミネール断章」
精神分析の未来形

2013年4月

講義:藤田博史(精神分析医)

セミネール断章 2013年 4月13日講義より


講義の流れ〜第4回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜

第4講:「フロイト=ラカン的精神分析を超える」

フランスと日本の精神分析の違い→日本の精神分析の特殊性→遺産相続人と互助会→精神分析の私物化の問題点→思考法の究極形としての精神分析→歴史と個人→思春期における疑問→第一次性徴期→潜在期→第二次性徴期→女性らしい思考と性ホルモン→MTFの場合→FTMの場合→schizophrenia の顕在化→Cogito ergo sum における措定→ 現象学と意識→la conscience de quelque chose→サルトルの実存主義とハイデッガーの哲学→意識と志向性→即自存在と対自存在→サルトルと投企 engagement →構造主義の登場→ソシュールと一般言語学講義→記号 signe と2つの恣意性→レヴィ=ストロースと親族の基本構造→ラカンと構造主義→フロイトと記号→ブンダーブロックについての覚え書→夢と現実の違い→精神分析は基盤にメスを入れる→意味とシニフィアンの連鎖→騙されないこと→自我の確認検査→転移→フロイトと教育分析→フロイト、ラカンへの批判精神→アナグラムと固有名→schizophrenia とキーワード→強迫神経症とキーワード→幼児期とキーワード→キーになる音→音とシニフィアン→キーワードによって埋めるということ→クライエントの言葉を音楽のように聴くこと→父親による禁止の言葉→音楽的アプローチ→発話によるコミュニケーション→同じ調と反発→寝椅子と自由連想法→自由連想法の限界→知覚シニフィアンと差異→シニフィアンはサーフボード→音階を飛び移るシニフィアン→リズムの重要性→リズム障害→声の治療→薬と自動販売機→薬のない状態→ウオッシュ・アウトについて→食事を変えることと母子関係の調整→睡眠は心の万能薬→向精神薬と麻酔薬→薬信仰を捨てること→薬屋の手下→メッセージを送ること→次に来てもらうこと→精神科医の重要な仕事→治療をつなげていくこと→治ったと同じになること→精神分析とaddiction→互助会としての精神分析→精神分析と倫理→スクールカウンセリングの問題点→学校と病気


夢と現実の違い 

 わたしたちが現実だと思っているこの世界も、実は一人一人の脳が創り出している個別の夢です。世界は、身体に備わる受容器すなわち感覚器官に生じた神経的刺激が、神経細胞のネットワークを流れて脳に到達し、何らかの情報処理を経ることで具体的な空間の形式のなかに再構成されている一つの創作物です。
 「えっ?そんなこと言ったって現実は現実です。右手の親指と人差し指で左手の甲を強く摘まんだら痛いですし、これは自明で、否定しようのない事実ですよ。」という人がいるかもしれませんが、本当に自明なのでしょうか? ここにあるテーブルに触っても、それはあくまで手にある感覚器官が創り出した一定の神経電位であって、それが脳に運ばれて処理されているに過ぎない。つまり「ものに直接触れる」などということは哲学的にも科学的に不可能なのです。
 もう一度繰り返しますと、皮膚に存在する受容器に電気刺激が生じ、それが神経パルスとなり、中枢神経を通じて脳まで辿ってきて、それと認識する。あるいは、散乱する光を、瞳孔を絞ることにより選択し、水晶体を通過させて網膜に像を結ぶ。これが神経電位に変わって脳へ到達する。身体に備わる複数の感覚器官が、それぞれ外部からの何らかの刺激を受けて、神経パルスを発生させ、脳へ電気的な変化を伝達し、脳において複数の情報が相互に合成されて、取り敢えず作られているのが、各自がそのようなものと認識している「この世界」なのです。つまり、最初の感覚器官に刺激を与えているであろう「もの自体」に直接触れることは、わたしたちは永遠に不可能なのです。必ず知覚を介している。
 ですから、素朴に普通に生きていれば「なに、これ、当り前じゃない、この世界、ここにテーブルがあって、こういう構造になっていて」というのは、実は自明でも何でもない。たとえばここに犬がいて、可能ならば犬そのものになって把握した世界は、わたしたちがそのようなものと思っている世界とずいぶん違うのではないでしょうか。視覚的な世界認識の仕方一つ取っても、単眼か複眼かで全然違うし、レンズの形状によっても見える世界の構造が異なってくる。例えば魚眼レンズで見た世界は、わたしたちから見れば歪んでいるのかも知れませんが、魚から見れば、わたしたちが見ている世界の方が歪んでいるのでしょうね。つまりわたしたちが当り前と思っている世界というのは、実はその確からしさを客観的に証明するものは何もないのです。思春期に差しかかって繊細な知性を持っている人のなかには、すでにこのことに気づいている人も少なからずいると思います。そこまでいかなくても、思春期になると、既成の価値観が揺らぎはじめ、自明性そのものが不安定になってくるでしょう。精神分析は、まさにその「主観的な自明性」が生じてくる心的な根拠の解明も視野に入れているという点において、既成の学問と明確に区別されます。

精神分析は基盤にメスを入れる

 つまり誤解を恐れずに簡単に言ってしまえば、精神分析というのは、わたしたちが当り前と思っている思考の基盤に対してメスを入れる方法なんです。これに対して、従来の既成の学問は、わたしたちがそういう当り前と思っていることを自明のものとしたところから出発しているのですよね。出発点は問わないわけです。そこに大きな違いがあるわけです。
 たとえばここにペットボトルに入ったリンゴジュースがあります。「りんごジュースがあります」と思ったとする。するとすかさず「りんごジュースがありますと思った」と思った、と認識がそれ以前の認識をさらに認識する、ということが可能になる。つまり、反省的な認識は、過去の思考や判断に対して、次々と事後的に畳み掛けてゆくことができるわけです。そんなことを繰り返しているうちに「思考は思考を思考し」の n乗、なんていうことになって、何がなんだかわからなくなってしまうわけです。そうすると、では一番確かなものは何だろうと、ラディカルに考えてゆくと、それはデカルトのコギトでもなく、現象学の意識でもなく、サルトルの実存でもなく、根本的にそのようなものではない、ということに気づいてくる。人が人であることを決定づけているのは言葉を話すということですが、更に進んでゆくと、その向こうにある確かなものとは、言葉を発したときの「音」であるということがわかってくる。言葉の意味によって各々の頭の中で再構成されている概念などというものは、もはや確かなものではないということがわかってくるのです。「幸せ」と言っても、皆が頭に思い浮かべるものは全然違うだろうし、「甘酸っぱい恋心」などと表現しても、なんかわかったような気になっているだけで、互いに答え合わせが永遠にできないような、そういう不確かな領域のなかに、わたしたちは生かされているのです。わたしたちが客観的に確認できるという意味で確かなものは、もはや「言語が創り出している意味」ではなく「言語を創り出している音」やそれに付随する物理現象なんですね。

意味とシニフィアンの連鎖

 精神分析では、言語を具体化している知覚可能な物理現象のことをシニフィアンと呼んでいます。構造的な観点に立った精神分析では、このようなシニフィアンが連鎖することによって様々な記号や意味や価値が生じている、と考えるのです。具体例を挙げてみましょう。たとえば、学校の先生、あるいは医師のもとへ、生徒もしくは患者が相談してきたとします。
 「先生、わたし、将来どうしていいかわからないんです、どうしたらいいんでしょう。人間そのものには興味があるんです。医学部に行った方がいいんでしょうか、それともやはり哲学の方がいいんでしょうか」と訊ねてきたとします。これに対して「そうだね、君に向いているのは哲学かもしれないね」とか「医学かもしれないね」とか、あるいは少し物わかりのよい先生を演じるのであれば「結局は君自身が決めることだよ」といった話をするかと思うのですが、精神分析家はそうではないのですね。
 精神分析家は直接問いにはださないけれど「先生、わたしは哲学の道に進んだ方がいいでしょうか、医学の道に進んだ方がいいでしょうか」と相談に来た時、精神分析家は、その質問の内容に直接返答することは留保して「誰がこの子をここへ差し向けたのか?」「そもそもこの悩みは誰のものか?」「この子の、一見自発的に見える行動を運んでいる欲望はそもそも誰の欲望か?」といったことを考えるわけです。そうして、精神分析のセッションが進んでゆくにつれて、実はどちらの道に進むべきかを真剣に悩んでいたのは、本人ではなく、父親だった、などということが明らかになったりする。つまり子は父親の代弁者だったりする。つまり、父親が子の口を借りて自分の欲望を吐露していた、ということが明らかになったりする。このようなことは一般常識のなかでは普通考えないですね。しかし、子供の言葉をそのまま受け取って、本人の悩みだと理解してしまった段階で、教師はまんまと騙されてしまっています。その点、精神分析家というのは「騙されません」という姿勢を貫く冷酷な職業なのですね。ですから、安易な同情や同意はしないのです。安易な意見も口にしません。理想的な精神分析家というのはクライエントに騙されない精神分析家です。一方、精神科医は容易に騙されたりしますし、意図的に相手に合わせたりということもします。皮肉な言い方になりますが、精神科医は積極的に騙された方が、薬も沢山出せるし、勤務先の経営者にも喜ばれるし、それなりの給料も出してもらえます。ですから、遊びに使う睡眠薬が欲しい子は、精神科医の前で「眠れません」と平気で嘘をついて易々と薬を手に入れることができるのです。つまり精神科医は「患者に積極的に騙されてなんぼ」といった皮肉な職業だと言えるのかも知れません。

騙されないこと

 要は「騙されない」ということが重要なのです。これは精神分析の臨床に限ったことではなく、日常生活においてもそうです。つまり「ものわかりの良い人」になるな、ということです。「ものわかりの良い人」というのは、一見、人に好かれるように見えますが、実はそうではありません。特に精神科の臨床では、安易に物わかりの良い精神科医を演じているとそのうち本当に悩んでいる患者は来なくなります。つまり「この人はわたしに合わせているだけ、わかった振りをしているだけ、だから一定以上の深い話はできない」ということになってしまうのです。精神科の外来にリストカットの女の子が親に連れられて受診してきた時「君の辛さはよくわかるよ」などと安易な言葉を口にしようものなら、その子は二度と来なくなります。「わかっていないのに、よく言うよ、この医者は」ということになるのでしょう。
 精神分析に限らず、精神科も含めて必要なのは、安易に了解したり同意したりしないことです。そしてそこへ付け加えるのなら、返事は必ず質問形で返すことです。この場合の質問形とは、相手の口から出た単語や表現を繰り返すことで行います。治療者の独自の言葉や表現は極力使わないようにします。なぜなら、治療者の独自の言葉のなかには、治療者の無意識の欲望が入り込む余地を与えてしまうからです。

自我の確認検査

 哲学する人を見ていると、自我の外部に対しては、大変注意深く、思慮深く、常識には騙されないぞ、という姿勢を取っている人が多いのですが、この姿勢をよくよく考えてみると、根本において、実は自分に騙されているのですね、つまり「哲学している自分の欲望を疑っていない」のです。ですから、様々な概念や思考を吟味するのですが、吟味している自分を運んでいる欲望については疑っていないのです。ですから、もし、そのような欲望の次元に気づいてしまうと、全てが転倒してしまう可能性が出てきます。どういうことかというと、なぜ、自分は今こういう哲学的な思索をしているのか、何が自分をして哲学させているのか、といった哲学的思索を運んでいる「動因 agent」への問いが生じてくると、抱いている問題群が哲学の領域から逸脱してしまうのです。そして、そこでは、哲学することによって自分は何を欲望しているのか、何を得ようとしているのか、あるいは、そもそも哲学的な思索をしているのは誰か、この欲望は誰の欲望か、等々の根本的な問いが生まれてくるのです。もし、そのような問いが欠如している場合には、つまりそういうことが一切問われないまま、哲学している自分だけは確かなものだ、という暗黙の了解や自明性を自分に与えてしまったまま思索を続けている場合には、それが実は自分自身の存在根拠を連続的に確認する行為になってしまっているのです。精神分析では、自我が自分の存在根拠を求めて、外部の知と自分との突き合わせを行ない、いわば言葉の鎧を着込んでゆくような行為を「自我の確認検査 récolement du moi」と呼んでいます。要するに「知を衣服のように着込むことによって自分を証明しようとしている」のです。精神分析に関わる人は、自分自身がこの自我の確認検査に陥っていないか、常に意識しておく必要があります。