セミネール断章 2013年 3月9日講義より
講義の流れ〜第3回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜
第3講:「フロイト=ラカン的精神分析の限界」
ラカンの限界について語るということ→自殺と他殺→異次元へのワープ→フロイト=ラカンの精神分析の限界→精神分析と互助会→教育分析と解散→性善説と性悪説→共同翻訳の必要性→教育分析とパス→教育分析と宗教→精神分析の三つ目の限界→フロイトとの自己同一化→リビドーについて→欲動の二元論→一人の天才→騙される人→ネクローシスとアポトーシス→ victuel について→見えるものしか見えないということ→空海の『秘蔵宝鑰』→色界、欲界、無色界→暗と冥→空海と言語哲学→意識と意識下→量子コンピュータと人間の脳→意識と速度→教育分析と大自然→分析家としての小動物→出遇いと出遇いそこね→夢のへそ→命あるもの同士の出遇いとしてのテュケー→アウトマトンと身体→生命としてのテュケー→精神自動症→声字実相義→シニフィアンとシニフィアンの対としてのシーニュ→Nachträglichkeit 事後性→遅延存在としての人間→シニフィアンと色界→デルタとdésir→ graphe du désir 欲望のグラフ→福島は終わっていないということ→騙されない人はさまよう→無色界と多世界論理→ラカンの精神分析の限界→トポロジ―と時間→フォルムと関係→語りたい人々→実感と真実→安部公房の「友達」→言葉と同情→精神科医の認定制度→精神分析の三つの限界
フロイト=ラカンの精神分析の限界
フロイト、ラカンの精神分析の限界という話ですけれども、限界といってもいろいろな限界があります。ひとつは、思考様式とか思考内容そのものが持っている限界、いわゆる理論的な限界です。もう一つは、精神分析は治療のために生まれた考え方ですから、臨床における限界。つまり本当に人を治せるのか、本当に人を救えるのか、そもそも人と関われるのか、という、いってみれば臨床的限界があります。あと、もう一つは精神分析をおこなう人つまり分析家の限界です。つまり、三つの限界があるわけです。
①理論的限界
②臨床的限界
③分析家の限界
精神分析について、世界的な動向を考えてみた時に、場合によっては、一部の知識人の自己満足の道具あるいは排他的独占の領域になっているのではないか、と思われることがあります。そして、そのような自己満足は、精神分析そのものが持っている自己矛盾的な内容から来ているように見えます。精神分析は、いってみれば人の心のなかに鋭いメスを入れていくような技法でから、そのような危険な技法を、素人にやらせてはいけない、という発想が当然生まれてくる。つまり精神分析に携わる「プロ」の人たちの根底には排他的独占の領域であるという意識が潜んでいます。喩え話をすれば、日本の銃刀法のようなもので、銃や刀剣を持ち歩くには許可がいる。これと同じで、精神分析を実践するには「許可」がいる、というわけです。この「許可」を得るために「教育分析」などという囲い込みを助長するような仕組みが固持されてゆく。しかしながら、精神分析家の資格というものは、絶対的な基準はなく、どこまでも相対的なものです。たとえば、アメリカは銃社会ですから、だれでも銃を持つことができる。つまり、エリアが異なればまた異なった常識が成立している。
精神分析と互助会
精神分析においては、フロイトのエピゴーネン達が、素人が中途半端に精神分析を理解して、それを臨床に使ったりしてはいけない、という取り決めを作ってしまっています。ラカンはこのような集団を『テレヴィジオン』のなかで「互助会」と呼んでいます。互助会では、お互いにルールを決めてこうしましょうね、こうしちゃいけないことにしましょうね、という規則が作られるわけです。互助会ができるわけですよ。ですから実は国際精神分析協会とか、日本精神分析協会といういわゆる正統派、フロイトからの流れを組んでいる協会と言われているものも、ラカンにいわせれば互助会にすぎません。フロイトの財産を守り続けるぞ、決意に満ちた閉鎖的で排他的な集団です。そこに根深く存在しているのは「素人に精神分析をやらせてはならない」という囲い込み的な思い込みです。わたしたちが知っておかなければならないのは、ここで「精神分析的な実践をある特定の人だけのものにしてしまう」という囲い込みが起こっているのだということです。
その結果何が起こっているのかは、みなさんご自身で確認してみてください。インターネットで「日本精神分析協会」「日本精神分析学会」等を検索すれば、その概略と実態がどのようなものかを知ることができます。批判をしようと思えば切りが無いので、ここでは各自の検索とその後の思索に委ねることにします。
いずれにして、精神分析に纏わる誤謬のひとつは、容易に「互助会」を作ってしまうことにある、ということをここで改めて強調しておきたいと思います。人が、そういう互助会やグループを作ると、帰属感と仲間意識が生じ、次にグループの内外の線引きが生じ、対立が生じる。それはもう世の常ですね、精神分析の場合は、その囲い込み enclosure が起こって、いってみれば「秘密結社」化する。その結果、自由な思考の伝播を妨げてしまう。
教育分析と解散
「正統」な精神分析の互助会は、相当な回数の教育分析を経なければ分析家になれません、という縛りを作っています。これはある意味恐ろしいことです。例えば、わたし自身は、いわゆる教育分析を受けていません。無論これは精神分析に対するわたし自身の考え方に従って取っている立場です。そうするとこのように言われます。「藤田さんは教育分析を受けておられないんですね」と。この言葉の裏には、ある不気味なものが潜んでいますね。ユダヤの選民思想はみなさんご存じですね。「自分たちは特別なんだ」という意識。つまり精神分析の互助会が、往々にして抱いてしまうのは「わたしたちこそが正統な精神分析家なんだ、そして教育分析を受けていない人たちは正統でないんだ」という考え方です。まずこれがフロイトのエピゴーネン達が後生大事に守り続けている最大の問題点なのです。最も重要なこと、それは「フロイト自身は教育分析を受けていない」ということです。ここに最大の矛盾と最大の問題点がある。「いえいえ、フロイトも受けたことになりますよ、友人のフリースにあれだけ手紙を書いていますから」と答える人もいます。しかしながらこれはどこまでも「自己分析 auto-analyse」以外のものではありません。友人のフリースに頻繁に手紙を書いたということと、今問題にしている教育分析とは、まったく別のことがらです。そうしてフロイトの死後「精神分析」という「遺産」を誰が正当に「相続」するかで、様々な争いや出来事が生じてきました。その結果、様々な派閥による精神分析の私物化。つまり互助会が沢山できてしまいました。そして、それぞれの会がそれぞれ言いたいことを言い続けてきたわけで、そこへラカンが登場して、みなさんのやっていることはつまり「互助会だよ」と言ってしまった。では、互助会ができそうになったらどうするのか、というとその互助会そのものを破壊(解散)しなければならないのです。これこそが最もラディカルな考え方といえるでしょう。ですからラカンはそういう会ができそうになったら、Dissolution を宣言して解散させてしまったんですね。そして亡くなる前にもラカン派閥的なグループを解散させました。ラカンの考え方に惹かれて集って来た人たちの名前を見ると蒼々たる人たちです。そのなかには今でもフランス思想界を代表するような人たち、例えばジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ジャック・デリダ、アラン・バディウといった人たちもいました。そんな知識人達が多数集まってきましたが、ラカンは全部バラバラにした。
教育分析とパス
今から18年ほど前、わたしが御蔵島の診療所に勤務していた頃、どなたからいただいたのか今では記憶が定かでは無いのですが、「日本ラカン協会」なるものを発足させたいので賛同をいただきたい、という主旨の手紙を頂いた時、わたしの頭にあったのはこの「互助会」のことでした。ですから、わたしはすぐさま「賛同しない」および「参加しない」ということを伝えました。その当時、精神分析の本質や真実について本当に分かっている人がどれほどいるのか大いに疑問だったわたしは安易な「ラカン互助会」が成立してしまうことに大きな危惧を抱いていました。そして、今現在の「日本ラカン協会」のおこなっている事業内容を見てみても、その危惧は当たっていたと言わざるを得ません。ですから、わたし自身の姿勢はこの18年間一貫しており、日本ラカン協会には今後も参加する意思はありませんし、むしろ今でも一刻も早く解散すべきではないかと考えています。
ラカンは、自分自身に関係する互助組織的なものを、解散することによって実行しました。それと同時に「教育分析」という制度を導入しませんでした。有名なラカンの定義「精神分析家は自らによってのみ資格を与えられる Le psychanalyste ne s'autorise que de lui-même.」が示すとおりです。しかし、その後「パス la Passe」という制度を導入してからは、話がややこしくなってきます。そのあたりの経緯は各自がネットで調べてみてください。
ここまで述べたことをまとめてみると、精神分析の限界として挙げられるのは、教育分析を設定していること、これがまず一つ。そして互助会が発生してしまうこと、これがもう一つ。
精神分析と宗教
ここでもう一つの問題をいうなら、それは「誰もがフロイトを賛美してしまうこと」です。これはいい意味でも悪い意味でも凄いことです。精神分析のエピゴーネン達についてかなり辛辣な批評をしている人でも、フロイトは例外として取り扱われることが多い。つまりフロイトの悪口を言う人が殆どいない。これはある意味、フロイトの位置が教祖のそれになってしまっている、つまり宗教化しているといえるかもしれません。ですから、ある意味、いつでもフロイトを批判できるようでいなければならない。これはキリスト教でも同じです。先日、樹徳中高一貫校の先生である福田肇さんがフジタゼミで「わたしのキリスト教」という発表をしてくれたのですが、大変面白いことを言っておられました。キリストはもともと大工で、キリスト自体は神ではない。キリストは神の子だと皆が勝手に認めているだけなのだと。つまり、こういって良ければ、アニメやドラマのヒーローと同じです。皆が指差して素晴らしいと言ったら素晴らしいことになってしまった。それが物語化され、十字架の刑に処せられた後復活しました、となってしまった。そこからは現実にはあり得ない作り話です。死んでしまった人間が生き返るわけがない。しかし、信者は皆、復活を信じて疑わないのです。そこからはどこまでも宗教です。一人の人間を無条件に賛美したり、特別な位置へと持ち上げてしまうことのないように注意しておくこと。フロイトの精神分析の一つの問題点を挙げるとすれば、これはラカンにもいえますけれども、特別な位置へ置いて絶対視してしまう危険性があるということです。あるものを絶対視することによって、そこから芋づる式に思想や思考が形成されてゆくのです。
精神分析の三つ目の限界
したがって、精神分析が抱えている三つ目の限界というのは「フロイトを批判できなくなっている」ということです。これは問題ですね。ここで何がおこっているかというと、精神分析に携わる人たちが、フロイトと自分とを、同一化しようとしているのです。その意味では、ラカンもそうですね。ですから、ラカンは自分自身のフロイトへの同一化に注意深く振る舞ったと同時に、周囲の人たちの自分への同一化に対しても注意を払いました。ですから、ラカンは自分に対しての他者の自己同一化を出来る限り避けるために、逆説的なことをかなりやってきたのですが、結局、ラカンを祭り上げる人の数が多くて、特にセミネールでのラカンのカリスマ的な姿は、ある意味宗教の教祖的な雰囲気を漂わせていました。
欲動の二元論
フロイトの晩年の論文「快感原則の彼岸 Jenseits des Lustprinzips」 で示された欲動の二元論はご存じのことと思います。このなかでフロイトは「死の欲動 Todestrieb」 という概念を出したのでした。生きているものはすべて死ぬ運命にある、ということを理論として抽出したわけです。生物学的な話をすれば、死の原因には二つあり、一つは外的な侵襲によってもたらされる死、もう一つは内側から自然にもたらされる死です。前者は、例えば、冬山登山で凍傷にかかり、血行が阻害されて組織が死んでしまう場合などがそうです。このような組織の死を壊死 necrosis といいます。一方、細胞レベルの死に注目すると、それは壊死ばかりではなく、自ら勝手に死んでしまう細胞がある。自分から自発的に死んでしまう細胞。例えば、卵子が細胞分裂によって作られる過程では、一つの卵子を最終的に残すために、途中で分裂した片方の細胞は必ず小さくなって自然に死んでしまう。つまり予め遺伝子の水準で死ぬことがプログラムされているわけですね。こういう死をアポトーシス apoptosis と呼んでいます。真ん中の p は発音しないのですよ。また発音しない音が入っているというのは憎いですね。まさに言葉のなかに「抹消」が入っているわけです。もしかしたら、生命の本質は「死ぬために生きている」といえるのかもしれません。