公開セミネール記録
「セミネール断章」
精神分析の未来形


2013年2月


講義:藤田博史(精神分析医)


セミネール断章 2013年 2月9日講義より




講義の流れ〜第2回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜


第2講:「そもそも精神分析とはなにか? 精神分析はサイエンスなのか?」



そもそも精神分析とはなにか?→考えることの難しさ→検証可能性と反証可能性フィクションのなかの反証→能記と所記→二つの恣意性→精神分析はメタ言語学→欲望の次元と精神分析→二つの異なるシニフィアン→遺伝子とシニフィアン→フジタ予想 Fujita Conjecture→幾何化予想→自然界は4の倍数→はしご状のものとねじれているもの→時間軸の導入→交叉エラーの修復→精神分裂病者のキーワード→単純型精神分裂病→キーワードとクロッシングハーモニー→クロッシングハーモニーと精神病的な交叉エラー→フォーカシングしないこと→ぼけた映像とフォーカシング→波束の収斂→精神分析家は最悪の職業→identityの問題→構築された虚構→低次元の欲望→日本精神分析協会について→物語が多すぎるということ→チャート式参考書のように書くということ→精神分析の革新性

そもそも精神分析とはなにか?



 予測したり、先取りしたりできる能力、それが思考において重要です。そういう意味で「考える」ということはかなり難しいことです。たとえば、数学の歴史を振り返ってみると、100年に一人か二人、天才と言われる人が現われる。たとえば、フロイトと同じ1854年に生れたアンリ・ポアンカレがそうです。あるいはガロア、ガウス、といった人たちの名前も浮かびます。天才が歴史のなかに突然現われて、凡人がその後を一生懸命追随する、という構図があります。
 地震かな?(実際に会場が地震で大きく揺れる)
 ラカンが『テレヴィジオン』のなかで地震を喩え話に出していますね。フランスでは地震に対して二通りのいい方がありますが、福田さん何ていうんでしたっけ?


福田(肇) tremblement de terre と séisme です。


 その通り。"tremblement"というのは「揺れ」のことですね。"terre" は「大地」です。地震を一語で表わすなら、"séisme"という言葉があります。通常揺れないはずの大地が揺れてしまう。揺らがないはずのものが揺らいでしまう。大地が揺れると、その上に建っているものはすべて揺れ、揺れが大きいと建物は壊れてしまいます。同じように、わたしたちの「思想」と呼ばれるものの殆どは、いってみれば大地の上に立っている建造物のようなものです。ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、マキャヴェッリも、モンテーニュも、ベーコンも、ホッブスも、デカルトも、パスカルも、ロックも、スピノザも、ライプニッツも、バークリーも、モンテスキューも、ヒュームも、ルソーも、カントも、ベンサムも、フィヒテも、ヘーゲルも、シェリングも、ショーペンハウエルも、ミルも、キルケゴールも、マルクスも、スペンサーも、ディルタイも、ジェームズも、ニーチェも、ベルクソンも、西田も、ラッセルも、カッシーラーも、ヤスパースも、ウィトゲンシュタインも、ハイデガーも、アドルノも、サルトルも、レヴィナスも、メルロ=ポンティも、ドゥルーズも、ガタリも、フーコーも、デリダも、サールも、ネーゲルも、クリプキも、、、、これで歴史上の主要人物は出てきましたか(笑)、そして今挙げた人の誰かを師と仰いでいる人、あるいは研究している人、なんとなく好きな人等々、、、結局、皆、大地の上に建っている特定の建造物なのです。


 都会に喩えていうと、色んな人が色んな建物の中に住んでいる。色んな学生が色んな学校で学んでいる。色んな子どもが色んな公園で遊んでいる。わたしたちの思想もまた同じです。それぞれの思索者がそれぞれの思索の場で思索している。そういう限定的なエリアのなかで、それぞれがそれぞれの知を弄んでいるのが思想です。ですから様々な遊び場で遊んでいる人がいます。スピノザ公園、カント公園、ウィトゲンシュタイン公園、クリプキ公園、フロイト公園、ラカン公園、、、数えだしたら切りがありません。

考えることの難しさ

 「考える」ということはとても難しいことです。それは単なるコトバの組み合わせではありません。今日のタイトルは「そもそも精神分析とは何か」というタイトルですが、精神分析という一つの公園、今の喩えでいうと、公園のなか、つまり、公園の名前として定義することができるかもしれません。あるいはもっとラディカルに、数々の公園が建っている土台のことなのだ、ということもできるかもしれません。一つの公園、たとえば数学とか経済学とか政治学とか生物学とか、一つの学問として精神分析を考えた場合は、「精神分析学」と呼んだりします。一つの学問分野として考えている場合です。これに対して、単に「精神分析」と呼ぶ場合には、様々な建造物が建っている大地そのものについて明らかにする方法論や技法論を指しています。そもそもわたしたちの思考そのものが拠って立っている基盤は何なのか、ということを問題にするのです。
 ご存知のように、精神分析は、ジークムント・フロイト・・・ミドルネームを入れれば、ジークムント・シュロモ・フロイトでしたね、確か・・・によって提唱された、あるいは創始された、あるいは構築された、心的なものにアプローチする方法論ですね。フロイトはそれを科学的なものとして位置づけようとしました。科学的なもの、ドイツ語では Wissenschaft といいますが、わたしたちはいったい科学的なものとそうでないものを、どういうふうに区別しているのでしょう。


福田 あのいくつかありますよね。たとえばカール・ポパーとかだとだったら反証可能性があるとか。あるいは古典的な科学の方法論だったら、仮説、実験、検証に耐え得るとか、まあ、そういう風な定義が。


 そうですね。通常考えられるのは仮説を立てて、そしてそれを検証する、反復して実験して検証することができる、これが古典的な科学の定義ですよね。だから検証できないことを言ってもそれは科学ではない。一番、代表的なものは「神がいらっしゃる」という発言。神を証明するのは大変難しいことですが、特に中世の哲学者はそれをやろうとしたのですよね。たとえばものすごく大きなものとものすごく小さなものは同じだとか、そういうことを証明しようとした。もし神がいることが検証できれば、神がいることになるのですけれども、いまだに検証できていません。

検証可能性と反証可能性

福田 ひとつは検証されるということは、反復可能性がある、つまり科学で実験というのは、同じ条件であれば必ず同じ結果がでなければいけない。たとえばある科学者がやった実験がおれだけしかこの実験でこの結果はできないだとか、あるいはアメリカ人でないとこの結果は出せないというのであれば科学にならない。で、同じ条件下では、誰がいつどこでやっても同じ結果になる、というのでないと検証とはいえない。


 おそらく反復実証することそのものが科学なんでしょうね。要するに、結果ではなくて、そのような方法論そのものだと思うのですね。そうすると、意外と科学って、われわれはわかっているようでわかっていない、ということがわかってくる、といいますか。「精神分析は科学ではない」と批判する人が結構いるのですが、そういう人たちに、では科学って何ですか、と問いを立てると意外と答えられないのです。そういうなかでフロイトは、あらためて心の科学という分野を措定しようとしたのです。「科学的心理学草稿」では、当時のニューロンという神経単位の考え方を使っていろいろ心理現象を説明しようと試みていますが、頓挫してしまいました。
またカール・ポパーの名前を出していただいたけれども、カール・ポパーは検証できるだけでは駄目だというわけですよね。反証できないと駄目と言う。また反証の可能性を持っていることが科学なのだというのですね。両方がないと駄目です。

精神分析はメタ言語学



 誤解を恐れずにいえば、精神分析はメタ言語学なのです。どういうことか説明してみます。ソシュールは『一般言語学講義』でシニフィアンとシニフィエの不可分離性を説きました。つまりシニフィアンとシニフィエからなるシーニュ(記号)は言語を構成する基本単位であり、二つの要素へと分解はできませんよというわけです。これに対して、精神分析は分解できるという立場を取るのです。何よりもまずSchizophrenia などの症状のなかで具体的に観察される。精神分析において、確かに当初は言語学の助けが必要でしたが、言語学におけるシニフィアンとシニフィエの不可分離性を認めることはできず、分離させて考える、というのが精神分析ですね。つまりシニフィアンとシニフィエは不可分離ではなく、互いにずれ続けている。たとえば川を流れている水と水底。これはずれ続けているわけですよね。シニフィアンがずれる、流れる。それが有名なラカンの欲望のグラフですね。シニフィアンが川のように流れている。ただ流れ続けているだけでは、記号や意味は生まれません。人間の欲望を、仮にΔ(デルタ)と表記すれば、シニフィアンの流れのなかに、欲望の運動が飛び込んで、シニフィアンを掴んで、別のシニフィアンへ接続して記号が生成します。この運動を視覚化したのが、ラカンの『エクリ』のなかに出てくる欲望のグラフ graphe du désir です。欲望の運動が異なるシニフィアン同士を結びつけて記号を形成する。



 これは従来の言語学にはない考え方です。つまり欲望の次元が考慮されている。さらにいうなら、精神分析は言語学者自身の欲望すらも射程に入れるのです。チョムスキーが生成文法を作り出した、その理由までも射程に入れる。チョムスキーの欲望までも射程に入れる、これが精神分析なのです。そして重要なのは、精神分析における記号は、シニフィアンとシニフィエの対によってではなく、対のシニフィアン signifiant binaire から形成されているということです。これが言語学との大きな違いです。だからこそひとつのシーニュは別のシーニュへと送られてゆくことができるのです。