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公開セミネール記録
「セミネール断章」
精神分析の未来形

2013年1月

講義:藤田博史(精神分析医)

セミネール断章 2013年 1月12日講義より


講義の流れ〜第1回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜

第1講:「精神分析の過去・現在・未来」

フロイトとアンリ・ポアンカレ→ポアンカレ予想→球体とトーラス→トポロジ―について→ウィリアム・サーストンと幾何化予想→幾何化予想とペレルマン→4の倍数と宇宙の構造→人間の染色体と4つの塩基配列→ヨットとノット→専門馬鹿の弊害→ラカンの先駆性→ラカンとトポロジ―→「語り」の構造→「語り」の不自由→量子論と精神分析→様相論理と精神分析→数学と精神分析→生物学の必要性→遺伝子とダブル・ヘリックス→フジタ予想 Fujita conjecture→シニフィアンの連鎖と二重らせん→初期化問題としての精神分裂病の治療→iPS細胞と初期化→精神分析の未来形とクロッシング・ハーモニー→精神分析の数学化と現在形としてのラカン→速読術と線状性→平等に漂わせる注意と人間の意識→集中力と解放状態→ポリフォニーと速読→読書数とエラーの訂正→ダイアローグについて→統治と大衆操作→三つの不可能→ジョークとしての精神分析→音とずれ→音楽と形式→見えるものに対する注意力→セミオティケと二重らせん→人間の語りのヴァリエーション→安永浩のファントム空間論→読書と自由連想→視覚情報と記憶→本物と偽物を見分ける力

ラカンの先駆性

 ラカンを研究している人たちは、自分が専門馬鹿になっていないか細心の注意を払っておく必要があります。これまで「わたしはラカンをやっています」という人に数多く出会ってきましたが、話を聞いてみると、これはちょっと、と首をかしげたくなるような人も少なからずいました。例えば、現実界、象徴界、想像界という仮説を実体的に考えていたり、ラカンの言うことを理解してゆけば何とかなると思い込んでいたり、ラカンはとても意味の深いことを言っていると信じていたり、こういうレベルになるともはや科学というよりは限りなく宗教に近いものなってしまいます。安易に信じるのではなく、まずは疑ってみること、そして疑い続けること、たとえそれがフロイトやラカンのディスクールであっても、まずは疑ってみること。そこからわたしたちの科学的な姿勢が生まれるのだと思います。
 「先生、わたし、ラカン、勉強しています」「どんな勉強しているんですか」「今『エクリ』の原書を読んでいます」というのですね。『エクリ』は皆さんもご存じのように、1966年に書かれた、もはやすでに古典本といってもよい性格の本です。確かに、初めて読む人には、今でも斬新かもしれませんが、ラカンのセミネールや著作に何十年も関わってきた立場から見れば、すべて解決済みの古典であると思います。『エクリ』はすでに古典なんです。もうあのなかに書かれていることは解決済みだと思った方がいいですし、もっと過激な言い方をすると、大したことは書かれていません。精神分析にとって取り組まなければならない問題は『エクリ』以降に立ち現われてきます。つまり問題は1967年以降のラカンの発言です。
 ラカンの生年は1901年です。ですから西暦を聞けば、即座にそこから1を引いてラカンの年齢を言うことができます。1966年だったら65歳、という訳です。ラカンは、晩年になってから、さらに自らの思考を展開させ発展させた人で、その意味ではフロイトにも似ています。『エクリ』の出版以後、つまり65歳から1981年に80歳で亡くなるまでの15年間、この15年間のなかにこそ、精神分析の現代的な意味を探るわたしたちが見過ごすことのできないラカンの思想の真髄が詰まっています。さらに言うなら、その真髄を知るためには、もはやわたしたちが慣れ親しんでいるような当り前の思考、例えば古典的な論理から最近のゲーム理論まで、そこに巣食っているわたしたちの思考の持っている限界を根底から突き崩すようなものの見方、考え方が必要になってくる。 
 今し方触れた「トポロジ―」という考え方のルーツを探れば18世紀の「オイラーの多面体定理」まで遡ることになるでしょうが、現代的な意味でのトポロジーは19世紀末から20世紀初頭にかけてのカントールやポアンカレの仕事が出発点になっているといってもよいでしょう。とくに20世紀の半ばになると多くの数学者がトポロジーの問題に目を向け、ちょうどその頃、ラカンもまた精神分析の「数学化」の一環としてトポロジ―を取り入れたのでした。興味深いことに、フランスの書店や図書館でトポロジーをテーマにした数学の専門書を開いてみると「ラカンが提唱した」という注釈の下に第四の輪が絡んだボロメオの結び目が紹介されていたりします。通常ならば、専門家である数学者が提唱してそれを精神分析家が利用する、という順番でしょうが、ここでは逆で、ラカンが言ったことが数学の教科書に引用されているのです。まさにこういう先駆性が必要なのです。

「語り」の不自由

 人間の「語り(ディスクール)」というのは、自由なように見えて、まったく自由ではありません。「語り」とは、既存の要素を組み合わせた結果に過ぎません。数学者サーストンによって、宇宙が8種類の幾何学的図形から構成されていることが証明された(「幾何化予想」)ように、「語り」もまた、有限個の要素の組み合わせから成り立っているに過ぎない、と心得ておくことが必要です。わたしたちの思考様式の根源的な変化は、サーストンのように、思いもよらなかったこと、常識では考えられなかったことに目を向けることによってこそその契機が作られると言えるでしょう。精神分析の研究においては、少なくとも、わたしたちの科学的な常識すら覆してしまった量子論と量子力学について可能な限り詳しく知っておくこと。これは必須です。そしてさらに、位相幾何学および様相論理学について学んでおくことも必須です。
 様相論理は、言葉を話す人間の思考、われわれの思考をどこまでも縛り続けている言葉の構造を探るためには欠かすことのできない重要な学問です。最近アマゾンの奥地で様相論理を持たない言語体系を持った民族が注目されて、NHKの特集なんかで放映されていましたね。これは大変興味深いことです。
 簡単に言ってしまえば、様相論理というのは、人間の幸せとか不幸とか、喜怒哀楽とか、そんなものを支えたり作り出したりしている張本人です。「もし僕が金持ちだったらあそこのビルを買い取るのに、、、」などと言ったりしますが、これが様相論理なのです。現実にないようなことを仮定する。これを反実仮想と呼びますが、そのような仮定を設けることで、人は空想のなかに入ることができる。
 そして三番目に挙げなければならないのは数学です。数学というのは人間の思考そのものを可能な限り抽象化し、その結合関係、相互関係、因果関係、等々を、数値化し、記号化し、目の前に未解決のままになっている問題を「解く」という形で解明してゆく分野です。
 これに対して「語り」というのは良いようで良くないですね。なぜなら、言葉というのは嘘をつく道具だからです。「語り」に捉われてしまったら、人も騙すし自分自身も騙されてしまいます。精神科医がよくやっています。大きく挫折し、本当に惨めで、貧乏で、自殺未遂を繰り返し、生きていく希望も見出せなくて、心身共にボロボロになった患者が精神科医のところに訪れる。精神科医はその患者の話にじっと耳を傾けた後にこう言うのです。「つらかったね」「大変だったね」「よくわかるよ、その気持ち」と。診察室の椅子に座っていて、ほんの数分話を聞いただけで、いったい何が分かるというのでしょうか。このような状況で発せられる精神科医の返答は嘘と欺瞞に満ちています。厳しいいい方をすれば、三流の精神科医というのは、嘘で塗り固めた返答をした後に薬を出す、という型にはまった行為を繰り返すマシーンになってしまっています。
 わたしたちが知りたいのは「本当のこと」なのです。「真実」あるいは「真理」といっても良いかもしれません。ですから、それに気づいていれば、患者に対して安易な同情はしなくなります。それではどうするのか。質問形で相手に返すのです。患者と全く同じ言葉を反復して「~?」と質問するのが基本です。できるだけ自分のオリジナルの言葉は発しないこと。そして「よくわからない、もう少し説明して」とか「別の言い方して」という風に返して、クライアントが連続的に自分のことを語り続けられるように接ぎ穂を出す、というのが精神療法の基本姿勢なのです。そしてついでに言っておけば、これはまだ精神分析ではありません。

生物学の必要性

 今、量子論理、様相論理、数学、と話をしてきました。そこへもう一つ付け加えておくとしたら何があるでしょうか?(聴講者に聞く)

 実は正解というものはありません。わたしの考えを申し上げるとすればそれは「生物学」です。わたしたちは何よりもまず生き物ですから。厳密に言うなら「分子生物学」です。それでは分子生物学が扱う最も重要な対象は何でしょうか。それは「遺伝子」です。遺伝子こそが、あらゆる生命を根本的に規定している不思議な構造物です。個体が滅びながらも種全体としては生き延び続けているという死と生の反復の不思議。遺伝子は結び目とらせんによって巧みに構造化されており、その構造と機能は、優れて数学的で、量子力学的で、様相論理的なのです。そしてきわめて具体的なものです。微細な遺伝子のなかに、わたしたちが生まれて死ぬまでの全ての情報が入っているのですから。例えば、染色体の末端部に「テロメア」という尾っぽのようなものが付いているのですが、この部分の長さとその個体の寿命が比例することも今では分かっています。日常のなかで、わたしたちが漠然と、あの人は長生きとか、あの人は短命とか、あるいはあの人は何々に優れているとか、足が速いとか、そういう特徴を形作るすべての情報が既に遺伝子のなかに組み込まれているのです。これがとても重要です。そして驚くべきことに、わずか四種類の塩基配列から成る立体構造の中に「時間」までもが組み込まれているのです。ですから、厳密ないい方をすれば、染色体は、三次元構造ではなくて四次元構造を成しているのです。三次元の振りをした四次元構造。ですから、分子生物学、特に染色体、遺伝子の構造と機能については徹底して研究する必要がある。

フジタ予想 Fujita conjecture

 ここでひとつわたしの予想 conjecture をお話ししておきたいと思います。 
 ポアンカレ予想ならぬフジタ予想です(笑)。

 フジタ予想=シニフィアンの連鎖は二重らせん構造 double helix をなしている

 つまり、複雑に絡み合い続けるシニフィアンの連鎖は、染色体と同じ、二重らせん構造が基本になっているという予想です。DNAと同様に、らせんがまたらせんを作り、そのらせんがまたらせんを作り、そのらせんがまたらせんを作り、という構造がもしかしたら、人間の精神という、時間をも取り込むことができる構造と、どこかパラレルな部分があるのかもしれない、ということです。つまりここで「わたしたちの心は染色体 chromosome のように構造化されている」という仮説を提唱することができます。そして、心の病気というのは、構造化された連鎖が、どこかで切断されたり、再接合されたり、新たな絡みを作ったりすることによって生じるのではないか、と考えるわけです。例えば、紫外線による皮膚癌の発癌メカニズムは、波長の短い紫外線がDNAの鎖に構造的変化を生じさせることで起こるということが分かっています。それと同じようなことがシニフィアンの連鎖のなかに生じる得ると考えるのです。

シニフィアンの連鎖と二重らせん

 こうして考えてゆくと「シニフィアンの連鎖 la chaîne signifiante」を「シニフィアンの二重らせん la double hélice signifiante」に読み替え可能であることが分かってきます。そうして考えてゆくと、心の構造と染色体の構造は似ているところが山ほどあることに気づきます。そうすると、実は「精神の病を治す」ということと「iPS細胞で身体の病を治す」という二つの異なる話題は、実は「初期化する」という発想において共通してゆく可能性があります。

 例えば精神分裂病(統合失調症)の治療可能性の問題は、構造的な初期化可能性の問題へと繋がってきます。iPS細胞における初期化の問題と似ています。iPS細胞の場合、サンプリングした細胞を初期化をするために必要な基本遺伝子がわずか4つであることを突き止めました。これが山中教授の功績の核心部分です。実は、この4つの遺伝子の発見は山中教授ではなく、彼の研究室の学生によるものらしいですが(笑)。先ほども触れましたが、この「4」という数字は実に神秘的です。もしかしたら、わたしたちの心という構造の縺れてしまった部分、あるいは交差のエラーを起こしてしまった部分に対して、先ほどのトポイソメラーゼ topoisomerase のような特殊な酵素のような役割をもつ、あるいはiPS細胞を初期化するための4つの遺伝子のような要素、つまりわたしたちが精神分裂病を治療する時に必要な「4つの要素」を発見することができたら、もしかしたら精神分裂病を初期化させることができるかもしれない。荒唐無稽な考えに聞こえるかもしれませんが、わたしは可能だと思っています。そうすると、問題は「如何なる方法によって」かということになります。

精神分析の未来形とクロッシング・ハーモニー

 おそらくそれは、すでに従来の精神分析的手法のままではないでしょう。従来の精神分析的手法というのは自由連想法のことです。わたしの念頭にあるのは、以前からお話ししていることですが、音楽におけるクロッシング・ハーモニー(交叉和音)という現象です。1960年代に登場した前衛的な女性3人グループ The Sound of Feeling 、70年代のアカペラ・ジャズ・コーラスグループ The Singers Unlimited 、あるいはミニマル・ミュージックの先駆者である Steve Reich らの影響を受けたコーネリアスこと小山田啓吾氏が、歌手の Salyu と組んで製作したアルバム『salyu × salyu(サリュ・バイ・サリュ)』のなかでクロッシング・ハーモニーが多用されています。
 通常の和声の理論というのは、ドミソのような、西洋音階でいうと飛び飛びの音の組み合わせによってーーおそらく蝸牛内のトンネルの口径によって限定される共振が関係しているのでしょうがーー心地よい音として聞こえたり、寂し気に聞こえたりします。長調や短調の和音がそうですね。単純化して言ってしまうと、ピアノの鍵盤で隣り合う音を同時に弾いても和音にはなりません。ところがこれを人間の声でやるとハーモニーになってしまう。これをクロッシング・ハーモニーといいます。音声の不思議ですね。余談ですが「五大に響きあり」と唱えた空海の『声字実相義』など思い出してしまいます。要するに、楽器では和音にならない音の組み合わせも、声でやると和音=和声になってしまう。これは何を意味しているのでしょう。ここで見逃してはならないのは、この時の和声を生じさせているのは、物理的な音声というよりは、その音声を聴き取っているわたしたちの心的メカニズムのなかで特殊な手続きが踏まれているということです。さらに言うなら、このクロッシング・ハーモニー理論は、心的な構造において、先ほど述べたトポイソメラーゼの役割を果たす可能性がある。

 たとえば精神分裂病の患者さん、一人一人の患者さんが、それぞれ固有のキーワードを持っていることがあります。そのキーワードに関連している個人的な体験が、その患者さんの病的な状態を生みだしていたり、支えていたりする場合があります。例えば、わたしが医学部6年生の時に精神科の臨床実習で担当した単純型精神分裂病の患者さんの場合「紅茶」とか「水」とか「流れていく」とか、そういうキーワードを持っていました。もちろん本人はそれをキーワードだと思っているわけではなく、治療に関与したわたしが抽出した言葉です。一般に、精神分析では自由連想によって分析が進行します。また、精神科のカウンセリングでは精神科医は語られた意味内容を吟味します。例えば「先生、昨日IKEAに行って椅子を買ったら、組み立てる工具を買わなきゃダメとか言われて、かなり苦労しました」と患者さんに言われたら「ああ、この人はIKEAに行って、椅子を買って、それに工具が必要で苦労したんだな」とまずは文字通りに受け取るでしょう。しかしながら、注意深い治療者であれば、カ行の音が頻発していることを初めとして、別の音素的特徴に気がつくでしょう。そして、その時、その彼の発した音素の音階を一つずらして反復するのです。ですから、これは絶対音感を持っていないと難しいかもしれません(笑)。例えば「先生、IKEAの」のIKEAのKEがレの音だとしたらそれをミの音で反復するのです。あるいは、そういう反復が難しい場合は、その目的のための音楽的な装置を作ることも不可能ではないでしょう。意識的な意味のやり取りよりも、無意識的な音階のやり取りを実行する。と同時に、意識的な日常の会話では無く、無意識的なキーワードの投与をおこなう。そういうことを無意識のうちに繰り返し治療現場に持ち込む。その時、自分のオリジナルの意見は言わない。例えば「あ」だけでもいいのです。一つ上の音、一つ下の音を持ち出す。精神分析治療のなかに取り入れる新たな方法論の可能性の一つとして、このような形でのクロッシング・ハーモニーの応用が考えられます。

聴講者 そうすると男女の声ではオクターブが違う可能性がありますね。

藤田  その場合はそれに応じた声を出さなければなりません。難しいかもしれません。

聴講者 その人に返す時にその高さの声で応答するということですか。

 理想は、同時に発音すること、です。ただし、患者にとっての真のキーワードでなければ機能しません。固有のキーワードを探しだすということは、多くの臨床経験を積まなければできませんし非常に難しいことです。しかしながら、適切なキーワードを、適切なタイミングでクロッシング・ハーモニーに乗せて返すと、患者のなかで何かがずれるのです。少しだけ、何かがずれます。そして、そこに精神分裂病では起こりづらい感情的な反応が現れるのです。不思議なことです。これはこれまでの臨床経験からわたし自身が得た事実です。先ほどのトポイソメラーゼの話でいえば、単に鎖を切るだけではなく、切った直後に繋げる、ということが起こるのです。つまりキーワードの適切な投与は、エラーを起こしていた連鎖を断つと同時に正しく繋ぎ直してくれる可能性がある。これが精神分裂病の治療へと繋がってゆく。
 一般に、そしていまだに、ラカン派は理屈ばかりで病気を治せない、などと嘯いている人がいるようですが、よく考えてみれば、別にラカン派でなくても、精神医療に携わっている精神科医、分析家、臨床心理士、カウンセラー等々、殆どの専門家は心の病を治せないままでいる。ただし、病を解(ほぐ)すことはできます。例えば、大きなおもちゃ箱のなかに、子どもが遊んだおもちゃがランダムに詰め込まれている。そして、そのおもちゃ箱をひっくり返して、全部広げてみることはできるのです。しかしながら、そのおもちゃ箱のなかで、その子にとって何が一番大切なおもちゃだったのかを言い当てることができない。あるいは、そのおもちゃを使っていった時間的順番を再構成することもできない。ただひっくり返して眺めるだけ。殆どの精神分析家がやっていることは、もしかしたらこういうことなのかも知れません。
 必要なのは、その子が遊んでいた順番を見て、その順番の通りに片付けて見せること、それが治療的な操作につながってくるわけです。遊んだ順番と一部違っていた場合にはそれを入れ替えたりする。精神分析は、100年以上にわたって、分析的な解釈の投与という、いわば最終的な「語り」を患者に与えることによってその治療行為をおこなってきました。語りに多くの限界があるとはいえ、それでもフロイトが残した功績は、分析の途中で中途半端な解釈を与えない、解釈は分析の終りの方まで保留にするというストイックな原則を持ち込んだことだといえるでしょう。ところが、今時のラカン派の精神分析家を自認している人たちは、よく語りますね。語りが好きなんでしょうか。患者の話を本当は聞いていないのではないかと思うくらいよく語ります。特に著書になかで饒舌になりますね。精神分析の本の体裁を取っているのに、中身は自分物語になっていたりします。わたし自身は、精神分析の理論書というのは、チャート式参考書みたいなものが理想だと思っています。小説のようなものは語りのなかに沢山嘘が入ってくるので、大抵の場合は読むに堪えません。


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資料:salyu × salyu 「奴隷」 from 「s(o)un(d)beams+」



salyu×salyu 「ただのともだち」合成