公開セミネール記録
「セミネール断章」
『治療技法論』


2012年12月


講義:藤田博史(精神分析医)



セミネール断章 2012年 12月8日講義より


講義の流れ〜第12回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜




第12講:「精神分析的治療技法の彼岸」

「わたしはわたしについて何も知りたくない」→自我と無知→言表と言表行為→発話行為と発話内容→ジャック・ラカンと精神分析→他者の要求→他者の欲望→自己分析と夢分析→夢分析と想起→抑圧と記憶→拡散力と平等に漂わされる注意→動機の重要性→フロイトと真理愛→対症療法と原因療法→精神科医と自動販売機→精神分析治療の基本→想像的同一化と治療関係→「精神分析の未来形」について→音楽と精神分析→声の重要性→精神分析と差異化→精神分析と音楽理論→精神分析と現代物理学→宇宙と音楽→観測と決定→多世界論理→量子論理的な世界観と様相論理→精神分析理論の再構築→無意識と波動→音素と周波数→意味と音素→分析家の欲望と音楽→日本的倒錯と音楽→抑圧とフタ→プラットホームとパラレルワールド→二者関係と同一化→コミュニケーションと音素→スピーチと精神分析的トレーニング→精神分析と一回性→日本的な心性とサンブラン→Autre semblant という考え方→精神分析の彼岸→人類の治療→自分自身の治療→掬うことと救うこと→真理愛と誠実さ→自己分析と夢分析→冒険と大自然→対象aと死→儀式と去勢→小動物の眼→リズムと反復→反復とコントロール→言葉と反復強迫→反復とゆらぎ→螺旋と軸→来年のセミネール

「わたしはわたしについて何も知りたくない」



 今年は1月から毎月精神分析の治療論について話をしてきたのですけれども、実践的な治療技法が必要な人もいれば、別に学問的興味とか研究上の興味で精神分析を勉強している人もいると思うのです。わたしは精神科医なので、どちらかというと切羽詰まっているというか、日常の臨床のなかで実際に実践していかなければいけない立場なものですから、治療論は現実的な要請としてあるわけですね。
 あとは文学、哲学、あるいは芸術その他の学問領域で研究している人で精神分析にも興味を持っていただいた方もおられますね。ですから治療論といっても、その受け取り方はそれぞれの分野で学んでいる人の立場によって全然違うわけです。
 しかしながら、治療というのは他人ばかりではなくて自分自身もその治療の対象になるという風に考えれば、誰もが少なくとも一人は患者を抱えているわけで、それが自分自身というわけです。百パーセント完璧な人間なんていないし、精神分析ではそもそも人間というものの成り立ち自体が完璧ではないということが大前提になっているわけですから、臨床的に第三者の治療にあたるために必要なこともあれば、自らをよりよく知るために精神分析を活用している人もいる。
 ここで敢えていうなら、自らを治療するということが、実は精神分析に携わっているすべての人に必要なことなのです。ラカンの有名な言葉に Je n'en veux rien savoir という言葉があります。Jeというのは「わたし」つまり自我ですね。n'en veux rien savoir は ne veux rien savoir de ………で、〜について何も知りたくないという意味です。この〜は moi-même つまり自我自身です。ちなみに veux の原形は「vouloir 欲する」で、英語の want に相当します。savoir は「知る」という動詞で、Je n'en veux rien savoir de moi-même を直訳すると「自我は自我自身について何も知りたくない」ということになります。
 「見ざる言わざる聞かざる」ってありますよね。あれと同じです。Je n'en veux rien savoir. この Je は一般的には「わたし」と訳されますが、精神分析の文脈においては「自我」です。「自我は自我自身について何も知りたくない」。これが自我の無意識の欲望の基本構造です。皆、自分が誰であるか取り敢えず知っているつもりになっているし、いろいろなことを自分が意識して、あるいは意図してしゃべっていると思っていますけれど、実はそのおしゃべりそのものを運んでいる欲望については無知であり続ける。

自我と無知

 ですから極端なことを言うと、自我は自分が何を望んでいるのか、何についてしゃべっているのかを知らないまましゃべり続けている。そこには取り敢えずの意味が生起してゆきます。しかし、なぜ自分が喋り続けているのかということに関しては、自我は無知であり続ける。つまり自らの欲望については知りたくもないということなのです。
 ラカンは、第20回目のセミネール Encore の冒頭で、このことをについて触れています。 Je n'en veux rien savoir 、これが自我の欲望の基本機能なのです。おしゃべりな人ほど自分が何をしゃべっているかわかっていない、ということがありますね。ですから自己分析を行なう場合には、自分自身が話している内容というよりも、その話を進行させている動因つまり自らの語りを運んでいる根っ子の部分についての知を得ること、すなわち自らの欲望について知ること、それが自己分析の基本姿勢です。
 語りdiscours には、必ずその行為じたいを運んでいる動因 agent があるわけです。動因があって,そして、その目的 objet があるのです。ですから語りというのは、単純化して書けば、こういうベクトルになります。例えば「おれは今から市ヶ谷に行って自衛隊の皆を説得してくる」というのは言葉の内容から言えば、そういう行為を今から行なうということですが、その人の行為そのものを運んでいる動因について詳細に調べてみると、もしかしたら動因のなかに同性愛的な欲望が発見されたりするのかもしれない。そういうことがあるのです。ですから精神分析というのは、ここから翻って、こういう風に動因について自分が意識的であること、あるいはその知を形成することであるといえるでしょう。

言表と言表行為

 わたしたちが言葉にして話している内容を、言語学では言表 énoncé と言います。そして、あらゆる学問は、この énoncé について考察されているといってよいでしょう。デカルトも、ウィトゲンシュタインも例外ではありません。言葉による人間の思考というのは、詰まるところ、この énoncé についての考察になっています。
 一方、精神分析は、この énoncé を産み出している欲望について考察するのです。つまり何ものかが énoncé を作り出している、このことに注目するわけです。この énoncé を作り出す行為を言表行為 énonciation といいます。通常、わたしたちは言語活動において、その意味内容を問題にして、議論したりコミュニケーションを図ったりしているわけですが、精神分析は、その意味内容のみならず、言表行為 énonciation そのものにも注目するわけです。何故そんなことを言っているんだろう、何がそんなことを言わせているんだろう、誰がそんなことを言わせているんだろう等々。一般の学問が問題にしているのは、言表の内部のことなのですけれども、精神分析が問題にするのは、言表行為そのものなのです。「誰がこんなことを言わせているんだろう」、普通はそんな風には考えません。当然その人がしゃべっていると思っているわけですから。例えば、また同じことをいいますが、「わたしは今から市ヶ谷の自衛隊駐屯地に行って、隊員に檄を飛ばしてくる」。内容はそうだけれど、実は「檄を飛ばしてくる」ということを言わせている動因というものがあるはずです。その動因。その動因は、必ずしも公のものではないかもしれない。きわめて個人的なものなのかもしれない。あるいは人によっては、実は彼の行為を引き起こしているのはまた別の人物の欲望とか意図なのかもしれない。
 精神分析とは、言表のみに目をとらわれることなく、言表行為及びこの言表行為の運んでいるなにものかについて知を形成すること、それを知ること、それを明らかにすることなのです。フロイトは「日常生活の精神病理学」という一連の論文を書いていますが、例えば「言い間違い」の精神病理学では、言表ではなく、言い間違うことそのもの、つまり言表行為を扱っているわけです。つまり何ものかが言表のなかに言表行為を通じて侵入する事態です。

発話行為と発話内容

 わたしの講義に参加されている方はすでに何度も聴かれていると思いますが、ルー・アンドレアス・ザロメのエピソード。彼女は、ライナー・マリア・リルケの愛人だった女性で、その後フロイトの親友にもなった精神分析にも理解の深い知的な女性です。以文社から出ている『ルー・アンドレアス・ザロメ著作集』のなかに書かれていたエピソードです。もし女性ならば、リルケの愛人なんて一回なってみたいですよね(笑)。あるいはフロイトの親友にもなってみたい(笑)。ルー・アンドレアス・ザロメは、精神分析に深い理解を示していた人で、こういう話なんです。
 一匹の小さな子犬と住んでいたんです。その子犬のことをロシア語で友だちという意味のドゥルジョックという名前を付けてかわいがっていました。彼女自身は毎日ミルクを温めて飲む習慣があって、ミルクパンでミルクを温める、ということをしていました。ところが、いつも気をつけているのに決まってうっかりとミルクを吹きこぼしてしまうのです。何度気をつけても、今度こそは吹きこぼさない、と思っても吹きこぼしてしまうのです。ところがドゥルジョックがある時死んでしまいます。すると不思議なことにその後はミルクを吹きこぼさなくなってしまったのです。後になって、ザロメは次のようなことに気がつきました。「そういえばわたしがミルクパンを火にかける時、わたしの足下にドゥルジョクがやってきて期待にみちた眼でわたしを見上げていたのを思い出した」と。つまり自分の失策行為を通じてミルクを吹きこぼし、吹きこぼしたミルクが床にたれ、その床にたれたミルクをドゥルジョックが舐めていたというわけです。つまり自分のなかにも自分でも気がついていなかったドゥルジョックへの深い愛情があったのだ、ということに気がついた、というエピソードです。当初はミルクを吹きこぼすという行為の意味が分からなかった。何故吹きこぼしてしまうのか分からなかった。ところがドゥルジョックが死んでみてはじめて、ドゥルジョックのために吹きこぼしていたんだということがわかった。
 この種のエピソードは、ルー・アンドレアス・ザロメに限らず、わたしたちが日常やっていることなのです。これが Je n'en veux rien savoir の意味です。つまり自我は自分が本当は何をしているか知らずにその行為を行なっている。精神分析はその行為を運んでいる欲望について明らかにする技法なのです。ですから精神分析家は分析主体(=被分析者)の発話内容に振り回されることなく進んでゆきます。

「精神分析の未来形」について

 来年のセミネールのタイトルは「精神分析の未来形」です。誰も提出したことがない、誰も思いもよらなかったというような「精神分析の未来形」について話をする予定です。これまでの精神分析治療は、言葉に頼って言葉を聞いて、言葉で意味を連想させていったりとか、あるいはそこの背後に享楽 jouissance を読み込んだりとか、そういうレベルのことしかやっていませんでしたが、実は人間のコミュニケーションが持っている大きな特徴は、リズムや音の変化です。今週木曜日のゼミに来られた方は聴かれたと思いますが、通常のリズムもあればシンコペーションもあれば、はぐらかしとかいろいろあります。言葉は何よりもまずリズムなのです。だから意味だけではなく、意味とリズムが相乗りしているということ、そしてそのリズムというのは人間が持っている根本的な運動を表現しているということ。
 もう一つは、そのリズムを乗せている発話行為のなかで生起する音素です。日本語だったら母音がアイウエオで五つあるとか、子音が十個あるとか。基本的に母音と子音の組み合わせで音声言語が成り立っていますが、その母音と子音の組み合わせも、精神分析の対象として取り扱うことが必要です。これまでの精神分析のなかでは、なかなかそういうものは取リ扱われてきませんでした。かろうじて言い間違いとかアナグラムとかそういう形で扱われたに過ぎません。このような発語のもつ形式について、システマティックに扱う精神分析的な研究というのは殆ど見かけることができません。ですから、来年のセミネールでは、音素やリズムや音の高低、強弱などをシステマティックにどういう風に扱ってゆくのか、ということについても少し話をしていこうと思っています。
 これもまた今週の木曜日に触れたことですが、去年の11月にsalyu×salyu(サリュ・バイ・サリュ)が出した一枚のCDが大変興味深い。salyu という女性歌手が小山田圭吾(コーネリアス)と組んで創り上げたアルバムがあります。小山田自身が、和声とか、音一個一個の価値とか、それらの繋がりとか、そういったものを非常に重要視するプロデューサーなのですが、salyu ととの絶妙のコラボを聴かせてくれます。様々な種類の音がいろいろな方向から飛んでくると同時に、人の声というものに執拗に拘っている。声というのは、精神分析ではなにか言葉を話すためのものですが、ここでは明らかに一つの楽器として考えられている。その楽器が心的な状態を吐き出している。
 和声の理論だと、ドミソとかシレソとかそういうとびとびの音が組み合わされると和音になる。ところがこの小山田圭吾と salyu のやったことは、これはすでに1970年代ぐらいから実験的にいろいろなイギリスのコーラス・グループやスティーヴ・ライヒたちが実験的にやっていたことでもありますが「隣り合う音が和音を作る」という現象を積極的に取り入れることだったのです。たとえばドミソではなくてドレという音が、楽器で演奏しても和音にはならないのだけれど、これを肉声でやると不思議な和音として耳に響いてくる。ここでは近接する複数の声を楽器のように使って再現されています。こういってよければ、これまでの精神分析の理論に欠けていたのは、そういう観点だったのです。つまりわたしたちの発話行為は、意味だけを伝えるものではなくて、リズム、母音、子音、周波数の変化もまた伝えている。ご存知のように中国人は結構高い周波数で言葉を話す。後は低い周波数で話をする国、フランスなんかは低いところと高い所に両方にピークがあったりするのですが、そういう周波数の問題や音素の問題があります。また隣り合った音が和音を響かせる現象を「クロッシング・ハーモニー Crossing harmony」といいますが、この現象について精神分析的に明らかにすること。わたしたちは、言葉の意味という側面に心を奪われ過ぎたために、声そのものが持つ様々な効果を聞き逃していた可能性があるのです。そういう可能性を悉に検証してゆくことのできるような精神分析的な方法論及び理論については未開のままです。ですから、来年はそれについて語ってゆくということになります。