公開セミネール記録
「セミネール断章」
『治療技法論』


2012年11月


講義:藤田博史(精神分析医)



セミネール断章 2012年 11月10日講義より


講義の流れ〜第11回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜




第11講:「政治、経済への精神分析的関与のための技法」

未知の世界→羅針盤と海図→DSMと精神医学の混乱→分類学と病理学→政治と経済→欲望と経済→消費者の心的構造→資本家の心的構造→政治家の心的構造と官僚の心的構造→消費者の幻想と資本家の幻想→ラカン信者と脳科学→「考える足」について→フロイトに還るということ→本を後ろから読むこと→大学への数学とエレガントな解法→考えることのむずかしさ→日本の学問の問題点→過剰な親切→四つのディスクールと資本家のディスクール→享楽と極-楽→剰余享楽と剰余価値→資本家のディスクールと主人のディスクール→ディスクールと幻想→語る身体の謎→鬱病の位置→鬱病と鏡像段階→官僚のディスクールと主人のディスクール→資本家のディスクールと官僚のディスクール→資本家のディスクールへの疑問符→消費者のディスクールとヒステリーのディスクール→ディスクールの基本構造→問題集としてのラカン理論→女性と消費者→男性の消費者とフェティシズム→ラカンと想像界→皮膚=自我について→クーデターとデモ→政治とバランス→日本の居心地の悪さ→核廃棄物と人類の未来→官僚のパペット→ヒトラーと精神分析→インターネットと議院内閣制→政治関与と直接選挙制→多数の意見と少数の意見→精神分析的な経済学の可能性→シソイドと社会→精神分裂病という名称→臨床心理士の仕事→精神医療の現場→幻聴の謎→二重見当識と現実の世界→資本家のディスクールへの疑問→資本主義はしゃべらない→脳科学ブーム→外と内→フロイトの紹介者としてのラカン→フロイトを徹底的に読むこと→ラカンは難解ではない

日本の学問の問題点

最近、ラカンの精神分析について書いている日本人の著書や論文をいくつか読む機会があったのですが、相変わらず同じような過ちを繰り返している、という印象を拭い去ることができませんでした。
書いている人たちは、それなりに真剣に考えているのだと思いますが、その真剣さとは裏腹に、共通の過ちに陥っている。まず一つ挙げられることは、ラカンの研究のみならず、日本では「誰々(の研究)をやっています」式の学者が多すぎるのではないでしょうか。勿論、文献学的に、特定の思想の典拠を明らかにしながら論を進めるのは当然のことですが、それにしても文章のなかに「誰々によれば何々」式の定型文が多量に含まれているのに出会うと、これはどうなんだろうと思うことがあります。


ラカンの精神分析に限っていえば、様々なグループで研究をしている人たちがいます。例えば、ラカン協会に所属してワークショップや大会で発表をしている人たちがいる。最近は若くて優秀な人も出てきているようですが、それでもやはりがっかりするのは、そのような優秀な人でも「誰々によれば何々」式の定型文の畳掛けで論文が成立していることがしばしばあるということです。思わず「あなたの固有の考えは何ですか」と突っ込みたくなります。「誰々(の研究)をやっています」ではなく、まさにその「誰々」のポジションに自らが立つ、ということこそが重要なのではないですか、とそういいたくなる。それでもなんとか最後まで読み進めると、いよいよ本題に入ったところで、肝心な部分は「今後の課題である」というこれまた定型文で締めくくられていて腰砕けになる。こんなことで良いのだろうか、といつも思ってしまいます。
やっとたどり着いたところが、実は出発点に他ならないということ。高校生のとき、わたしは歴史が苦手だったのですが、日本史でいうと、最初のページから勉強してゆくとどんなに頑張っても鎌倉時代あたりで精根尽き果ててしまう(笑)。それでも頑張って続けてやっと江戸時代が終わる(笑)。タイムアウトで仕方なく試験を受けたら、殆どの設問が明治以後のもので構成されていてがっかりしてしまう。案の定、酷い点数を取ってしょんぼり、という訳です。歴史の先生にいわせれば、日本史で最も大切なのは明治以降、特に現代に直結している昭和史だという。これは当たり前といえば当たり前です。

過剰な親切

ラカンについていうと、いまだに『エクリ』にこだわり続けている人たちが沢山います。「《盗まれた手紙》についてのセミネール」とか「論理的時間と予期される確実性の断言」といった論文にいまだにこだわっている人たちが少なからずいるということに驚いてしまう。勿論どちらも重要な論文であることには変わりありませんが、これが今現在における研究対象になり続けてもらっては困る。ラカンが辿り着こうとしていた場所から振り返れば、それらはいずれも遥か手前にあるものです。つまり通過点に過ぎません。ご存じのように、ラカンのエクリは1966年に出版された本ですから、世に現れてからすでに46年の歳月が流れています。これはラカン中期前半までの思想に相当します。当然のことですが、中期の後半から後期の思想は含まれていません。ラカンにおいて真に問題にしなければならないのはむしろエクリ以後の思想の流れです。にもかかわらず殆どの研究者がエクリという迷路のなかで立ち往生している。


そうではなく、わたしはラカンの中期の後半から始めようと思います。ラカンの年齢でいうと70歳から80歳までの10年間の思想です。したがって、そこにたどり着くまでにやっておくべきこと、その時点ではすでに自明になっていることが少なからずありますが、それは各自で勉強してください、と申し上げておきたいと思います。学問に過剰な優しさは禁物です。


出発点まで案内するのに手間がかかって、なかなか頂上目指して出発できないというのは、尖端でものを考えている人の足を引っ張ってしまいます。手取り足取りして出発点まで連れてきてあげる、というのは、学問においては親切でもなんでもなく、単なるお節介になってしまうことが殆どです。


分裂病の原因になる母親 Schizophrenogenic Mother という概念があります。子に過剰に関与して、自我の形成を阻害し、分裂病を発症させてしまうのです。過剰な親切は、ある意味暴力でもあるといってよいでしょう。ですから、わたしは一貫して「ここまでは皆さんが自力で歩いてきてください。わたしは、ここから話をします」という立場を取るのです。もし、麓から一緒に歩こうとしたら、恐らく五合目で疲れ果ててしまいます。


にもかかわらず、世間には「麓から一緒に登りましょう」という優しい先生が溢れています。あるいは、先回りして「五合目で待っているからあなたたちも五合目までは自力で来なさい」という先生もいるでしょう。そのようないい方をするならば、わたしの場合は「九合目で待っています」ということになります。ですから皆さんには、九合目まではとにかくご自分の力で歩いて来てもらいたいのです。そして「そこから頂上を目指す」ことに全力を注ぐのです。


ところが、こんなことをいうと怒られてしまうのですけれど、頂上から見渡すと殆どの学者さんが五合目で休んでいる。ずっと休んでいる。「いつまで休んでいるのですか?」と声を掛けたくなります。そこに二、三十年腰掛けたままの研究者もいるので「ちょっとちょっと」と思ってしまいます。

四つのディスクールと資本家のディスクール

たとえば、今日は政治経済にコミットするという話をするわけですけれども、今、簡単に書いたこの四角の図(図1)、これは説明のためにわたしが思いついた図ですが、いうまでもなく、わたしたちが生きている現代は一部の国を除いては資本主義経済で動いています。この資本主義社会のなかで、わたしたちがどのようなポジションに置かれているのか、ということを、ちょうどジャック・ラカンが「アンコール」というタイトルのセミネールをやっていた年ーーーアンコールというのは、もう一回 encore という意味と、en corps 身体において、という意味があるわけで、スイュ版の書籍では「聖テレジアの法悦」という有名なイタリアの彫刻が表紙になっていますーーーその頃はイタリアに興味が向いていたのか、イタリアでラカンが講演した時に資本主義について語ったことがあるのです。


図1


ジャック・ラカンの四つのディスクールは皆さんご存知ですね。主人のディスクール、大学人のディスクール、ヒステリー(症者)のディスクールそして分析家のディスクールです。その後のラカン研究者は、これらをいろいろとひねって、誰々のディスクールみたいなもの作ったりしていますが、今触れた四つのディスクール以外でラカン自身が言及したディスクールは、資本家(もしくは資本主義者)のディスクールです。但し、ディスクール自体の構造分析にはあまり拘らない方が良いでしょう。むしろ重要なのは幻想の構造分析の方です。重要なのは幻想の方であって、この幻想が具体化したものがディスクールです。


資本家(主義者)のディスクールについて、ラカンがイタリアで講演したときにちょっと触れているのですが、資本家のディスクールについて聞いたことある人、いますか?これを誤って「資本主義のディスクール」と翻訳している人もいるようです。資本主義そのものは喋りません(笑)。ラカンのいう Discours capitaliste もしくは Discours du capitaliste は「資本主義のディスクール」ではない。発話の主体は人でなければなりません。四つのディスクールを見れば分かることですが、主人、大学人、ヒステリー(症者)、分析家はいずれも人です。ですから資本家のディスクールもしくは資本主義者のディスクールといわなければなりません。Discours du capitaliste、capitaliste というのは、資本家です。理論面に重きを置けば資本主義者といい換えても構いませんが「資本主義のディスクール」ではありません。

享楽と極-楽

資本家のディスクールを論じるにあたって、ラカンが注目したのは l'objet petit a です。人間は、シニフィアンを掴んで、そこに意味を紡ぎ出し、価値を創り出し、悦びの連鎖すなわち「享楽 la jouissance」という独自の次元を創りだしてゆくのですが、その遥か彼方にある究極の享楽が l'oblet petit a です。いい換えるならば、わたしたちが日常体験している悦び以上の、いわば過剰の悦びなのです。ラカンはこれを le plus-de-jouir と表現します。もうこれ以上は享楽できないよ、という究極の享楽、わたしはこのニュアンスを出すために le plus-de-jouir を「極-楽(きょくーらく)」と翻訳しました。l'objet petit a は、生命の最終的な到達点つまり死 la mort でもあるわけですから、この究極の享楽を極楽(ごくらく)に掛けて、そこへハイフンを入れて「きょくらく」と読むことにししたのです。一般的な訳し方をすれば「剰余享楽」となるでしょう。恐らくここで、マルクス経済学を専門にしている人は「剰余」なる言葉に敏感に反応されるかもしれません。「剰余」つまり「剰余価値」を連想します。フランス語では la plus-value です。似ていますね。

剰余享楽と剰余価値

資本主義経済のなかで純粋な労働の対価以上の価値が生み出される。これが剰余価値。現代社会では、サービス残業などの不払いの労働によって作り出されるのも剰余価値です。また剰余価値は付加価値によっても作られます。たとえば「アップルコンピュータってすごいよね。本来の機能もすごいけれど、デザインも素晴らしい」といった付加価値、これは本来の機能を超えたものですね。ラカンはここに目を付けたのです。どういうことかというと、剰余享楽 le plus-de-jouir と剰余価値 la plus-value は、その根本において同じものなのだ、という視点です。そうしたら、皆さん、もう九合目から話をして申し訳ないけれど(笑)、四つのディスクールをホワイトボードに描いてみます。「動因」そもそものディスクールの原動力、「目的」、そこに何かできる「生産物」そして「真理」。これがディスクールの基本構造です(図2)。


図2

資本家のディスクールと主人のディスクール



ここで資本家のディスクールについて考えてみます。資本家が目指すものは利益を生み出してくれる過剰な価値の創造です。つまり、資本家のディスクールによって生産されるものは剰余価値です。そしてその剰余価値を生み出すものは、プラスアルファの価値が付与された魅力的な製品群です。たとえば、アップルコンピュータは Retina ディスプレイを搭載した13インチのMacBookProを市場に送り出しました、製品というのはいい換えれば知の結晶です。ですから、生み出すのは製品(S2) つまり知です。このように商品を産み出してそこに剰余価値を発生させる。これが資本家のディスクールの根本構造になります(図4)。




図3 図4


ところで、このディスクールは既存の四つのディスクールのどれかに似ていませんか。そう、右半分が主人のディスクールになっているのです。主人のディスクール(図3)。これはいってみれば真理から知に向かって突き進んでゆく命令話法です。これに対し、資本家にとっての真理性は絶対的な条件ではありません。極端なことをいえば、資本家の目的は事業によって出来る限り利益を生み出すことです。端的にいえば、出来るだけお金を儲けることです。良い悪いは別にして、基本的にはそういうことになります。そして、資本家は、必ずしも自らを突き動かしている動機について意識的であるとは限りません。ソフトバンクの孫さんやユニクロの柳内さんですら、もしかしたら、自らの欲望については無知のままでいるかもしれない。先日ニュース番組を見て興味深いと思ったのは、この二人は同じことをいっているのです。すなわち「ナンバーワンでないと意味がない」と。これはどういうことかというと、自分の足下がナンバーワンになること、つまり自分の真理の場所にナンバーワンが来ないといけない、ということなのです。つまり真理は自分の足下になければならない。しかしながら、その一方で、自分自身の欲望については無知であり続ける。ですから資本家のディスクールはこのような構造をなしている。結果的には、主人のディスクールの動因 agent と真理 vérité を上下にひっくり返した形になっています。結果としてはそうなります。しかしながら皆さんは資本家のディスクールが成立している意味を知っていなければなりません。


ここで思いつくことは、四つの要素を入れ替えることで様々なディスクールの構造をシミュレーションすることが出来るかも知れないということです。思考実験としてはなかなか興味深いものがあります。皆さんも自力で考えてみてください。消費者のディスクール、政治家のディスクール、官僚のディスクール、等々。考え方のポイントは何かというと、この部分、「生産」です。そのようなディスクール活動を行なうことによってその人は何を産み出そうとしているのかということ。産み出すために何を手段として使っているか、それがここに来るわけです。たとえばスティーヴ・ジョブスであれば、彼はここで優秀な商品を創造する。そうすると、優秀な商品を創ると、それに対して剰余価値 la plus-value つまり利益が生じてくる。そしてその利益が自分の真理として働いてくる。そしてそれが回転する。では、消費者は何を求めているのか。選択肢はこの四つしかないわけだから。この四つのうちのどれを消費者が求めているのかという問題になります。

ディスクールと幻想

K そもそも疑問として、幻想の最初の$から対象に向かっている矢印があるのですが、その資本家の幻想は$からS2に行っているけれど、それは構わないのですか。


構いません、ディスクールですから。ディスクールと幻想の関係をクリアにしておかなければなりませんね。これもまた入れ子構造なのです(図5)。今、Kさんが指摘されたのは、→S1→S2→a この順番です。ここが現実界でしょう。ここが象徴界、ここが現実界。具現化するディスクールというのは象徴界のなかに生じるわけです。どういうことかというと、この象徴界のなかで、いわば擬似的な幻想が生じるのです。入れ子構造といってもよいでしょう。わたしたちがそれと名指して取り扱うことができるもの、あるいはそれとして具象化できるものというのは、S1-S2 の連鎖のなかに生じてくるものです。それがこのなかで働いているので、この基本的な幻想は誰もが持っているわけです。孫さんであろうが、カール・マルクスであろうが、ヒトラーであろうが、誰もが持っている幻想。その幻想のなかで、いってみれば一階層下の幻想、つまりミニチュア版のサブの幻想が作られる。それがディスクールの構造です。ですからこの外枠の基本的な幻想じたいは変わらないのです。ちなみに、この基本的な幻想が壊れてしまうのが精神病といってよいでしょう。ですからわたしたちがディスクールについて語るときは、精神病は最初から除外されているのです。なぜならばS1が最初から排除されているわけですから。
図5


もう少しわかりやすく書くとするとこうなる(図6)。藤田式の幻想の展開図ですが、このなかに$ーS1ーS2ーa がある。これがぐるぐる回っている。こういうのを再現代理 représentant といいます。だからこのなかのこれとこれは représentant du réel。現実界そのものはわたしたちは取扱うことはできませんから、象徴界のなかで représentant として、つまりいわゆるカントのいう「もの自体」が「もの自体」と命名されて取り扱い可能になるように、象徴界のなかに再現代理 représentant が現われているわけです。ですからディスクールについて語っている時はこのなかについて語っている。


図6


そうすると、四つのディスクール+資本家のディスクール Les quatre discours plus le discours (du) capitaliste について語っている場合は、暗黙の了解として、彼らは精神病ではない、という大前提があるわけです。大切なことですがラカン派を自認する人たちの誰もこのことを教えてくれていません。つまりディスクールが成り立つための条件というのは、もともと根源的な幻想がちゃんと成り立っていることなのです。その幻想の下に、ディスクールが生成されていく。そのディスクールの構造を見てみると、agent、 objet 、produit 、vérité、それらの四つのポジションが入れ替わっている。面白いのは、それが風車のように回転していくというところです。

語る身体の謎

そうすると(板書)こういうことがある。話存在とか話す存在と訳されている être parlant、わたしは通常「語る存在」と訳していますが、よく見ると、矛盾した二つの概念が結合しています。être は現実界であり、parlant は象徴界の出来事です。「語る身体の謎」といったりしますが、そこに欠けているのは想像界です。実は欠けているのではなく、省略されていると考えなければなりません。完全な形にするとこうなります。


être parlant du moi


つまり「自我について語る存在」というわけです。ここではじめて想像的な自我が登場する。être parlant の後ろには du moi が省略されているのです。ですから、être parlant という表現を見たら、être parlant du moi のことなんだ、du moi が省略されているのだ、と考えてください。自我について語る存在。存在は無闇矢鱈に語っているわけではなく、結局は自我について語っているのです。ディスクールの本質は、être parlant du moi であり、moi について語っている。さらにいうなら moi の構造について語っている。そして moi の構造のバリエーションとして 資本家もいれば、ヒステリーもいるし、大学人もいるし、アナリストもいるということになるのです。