セミネール断章 2012年 10月12日講義より
講義の流れ〜第10回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜
第10講:「《正常人》の治療技法、《集団》の治療技法」
正常人と集団→第三項排除効果と集団→上方排除と下方排除→クラインの壷と生贄→正常な集団の構造→正常な集団の異常性→三項関係と微分→言語における微分学→差異と差延→匂いと時間→変化の知覚としての差異→異なる知覚相互の差異→差異と照合関係→三本脚のテーブル→集団療法と三項関係→集団療法と社会復帰→教育分析の自己矛盾→ラカンとパス→「精神分析家」の基本定義→クライアントの評価→「日常生活の精神病理」と正常人の精神分析→正常人の精神分析と「疑う」ということ→信じることと宗教→限られた情報で再構成された世界→人間の知覚の限界→正常と常識→精神病と世界の在り方→いわゆる正常について→異常と補填→宇宙と補填→対称性のくずれと補填→母子間の対称性のくずれ→欠如と補填→補填の操作としての治療→ジョイスのエゴと補填→サントムと補填→後期ラカン理論における補填→補填と補綴→退行と転移操作の技法→補填と父のポジシオン→女性の分析家がかかえる困難→治療と発達段階→鬱と授乳期間→鏡像段階と鬱病の関係→疑似去勢としてのリストカット→分裂病者と別の世界→父の名と天皇制→治療技法と補填→心身問題と脳→ヒューリングス・ジャクソンとアンリ・エー→ラカンとエー→脳科学とアトミズム→大脳生理学と脳科学の違い→「時間とクオリア」について→マスコミと迷える子羊→マスコミの集団心理→大衆と真理→知覚様式としてのクオリア→差異と時間→大衆の精神分析→小林秀雄的レトリックについて→古美術と弁論術→迷路案内人としての日本の思想家→集団に対する補填の可能性について
正常人と集団
今日のタイトルは「《正常人》の治療技法、《集団》の治療技法」です。フロイト自身も、集団に対する精神分析の可能性について考えていたことは皆さんもご存じだと思います。1921年に発表された『Massenpsychologie und Ich-Analyse』という論文ですね。そのなかでフロイトは「同一の対象を自我理想として、互いの自我で同一視し合う個人のあつまり」が集団の特徴であるというようなことを述べています(図1)。しかしながら、問題は、果たしてそれだけで十分だろうかということです。
図1
自我理想を共有する形での集団統制にもっとも成功したのがヒトラー率いるナチス・ドイツだと思いますが、そこでは、民衆の心理が巧みに操作され、個々の心のなかでヒトラーが自我理想の位置へシフトし、あれだけの国民の総意が誕生してしまったわけです。しかし、このような自我理想の出現と同時に必ず要請されるのが犠牲者の存在です。いい換えるならば生け贄の山羊 bouc émissaire です。自我理想を高く掲げれば掲げるほど、それに見合った犠牲が必要になってくるという基本的な力動が集団のなかには潜んでいます。
第三項排除効果と集団
今村仁司さんの『排除の構造』という有名な本がありますね。1985年に青土社から出版された本です。このなかで展開されている「第三項排除効果論」は当時大変刺激的で、わたしも『精神病の構造』を執筆していた頃に大いに刺激を受けました。この第三項排除効果を簡単に説明すると次のようになります(図2)。
図2
(楕円形を描いて)象徴平面がこんな形であるとすると、この象徴平面から押し出されるようにして第三項が上方へ排除される。たとえば自我理想が突き上げられると、あたかもそのバランスを取るかのように、まるで反作用のように、特定の対象が下方へと排除されるのです。どちらも排除なのですけれども、上方排除と下方排除が同時に生じています(図2)。
例えば、ナチス・ドイツの例でいえば、上方に排除された第三項にヒトラーが嵌まり、下方に排除されたもう一つの第三項にユダヤ人が嵌まる。この下方排除された第三項がいわゆる「生け贄の山羊」です。一方、上方排除された第三項はいってみれば「神」に相当するようなポジションを得ています。これは文化人類学の知見のみならず、わたしたちが日常のなかで経験的に知っている集団力動の基本的な法則といってよいでしょう。
集団がひとつにまとまり、象徴平面がより堅牢なものになるためには、上方排除と下方排除が同時に生じていることが必要です。いい換えるならば、この二つの排除が生じている限りにおいて、象徴平面は「正常」と呼ばれ、その中で様々な「常識」が捏造されてゆくわけです。ですから、わたしたちが素朴に「正常」と思い込んでいる集団は、実は犠牲者を排除して成り立っている最も質(たち)の悪い多数者であるということもできるでしょう。ついでにいってしまえば、多数者が支配してゆく民主主義そのものが抱えている根本的な逆説も、実はこのような構造的な裏付けを持っています。ですから「衆愚政治」という言葉が、思いがけず深い意味を持っているとすれば、実はそのような事情が隠されているからなのです。
上方排除と下方排除
卑近な例でいうと、いわゆる「公園デビュー」という問題があります。これは幼い子を持つ母親が、すでに公園において成立している母親集団のなかに新たに自らの子を連れて参加してゆく儀式のことです。その場を陣取っている既成集団にうまく溶け込むことができれば大丈夫なのですが、そうでない場合には悲惨なことになります。公園で子供を遊ばせている母親の集団のなかには、必ずといってよいほど犠牲になっている母子がいるものです。集団のあり方としては、ありふれた風景なのですが、ある意味、非常に恐ろしいことが起こっているわけです。特定の母子が犠牲者になることによって、その他の母親同士の結束が強固なものになっている。
あるいは会社組織のなかの労使問題などにも同様の力動が見られることがあります。労働者と経営者との間で摩擦が起こる。大抵の場合、労働者の不満というものは個人的な問題に端を発していることが多いのですが、それらが次第に鬱積してくると、どういうわけかその矛先が経営者の方へと向けられてしまうのです。さらに昂じると経営者の責任問題という形で労使問題が顕在化する。その時、労働者は強く結束する。
このように、多かれ少なかれ人間が集団を構成してゆく場合には、今述べた、上方排除と下方排除が同時に生じているということを、まず念頭に置いておく必要があるでしょう。
クラインの壷と生贄
そうすると、わたしたちが取りあえず平和な生活を送ってゆくためには、上方排除にも下方排除にも当たらないように、大人しく象徴平面にとどまり続けることが肝要だということになります。上方排除されたらされたでこれはかなり大変なことになってしまうし、下方排除では本当に悲惨なことになってしまいます。
ですから古今東西、生贄というものは、上方排除の裏返しであるだけに、犠牲者であると同時に、神聖なものとしても扱われてきたという経緯があります。その昔、浅田彰が『構造と力』のなかで、たしか上方排除と下方排除が同時に起こるということを直感的に説明するためにクラインの壷の例を挙げていたかとおもいます。ご存じのように、クラインの壺は、メビウスの帯の三次元版で、内部と外部の区別がない想像上の壷ですね。実際に作ることはできない。
(ホワイトボードに図を描きながら)これだったら普通の壷ですよね。クラインの壷というのは、首の部分が下方へ曲がって降りてきて、壺の本体を突き抜けて、底面へ接続されている。もし、この底面から蠅が飛んで入ってきたら,飛び続けると内も外もなくずっと飛び続けることができる。つまり内も外もないような壷。つまり上方排除と下方排除は実は同じものだということを一つの立体でーーーこれはあり得ない立体ですけれどもーーー表現しているわけですね(図3)。
図3
正常な集団の構造
ですから、まずわたしたちが集団について考える場合に念頭に置いておかなければならないことは、正常というものを支えている構造自体が実は異常なものだということです。「正常」を支えているメカニズム自体が「異常」なものなのだということを知っておくこと。正常な集団とか正常なグループ、正常と言われる何かを考察する場合には、必ずといってよいほど上方排除と下方排除が同時に起こっている。今回のiPS細胞をめぐる一連の事件もその典型的なものといえるでしょう。京都大学の山中教授がノーベル賞を受賞しましたが、それと同時に、一昨日あたりから、一人の日本人がすでに臨床応用に成功したという話が出てきた。こんなことをいうと不謹慎かもしれませんが、医学系の学会のポスター発表で、捏造したデータで発表している人など山ほどいるので、通常なら見過ごしてしまわれるところでしたが、山中教授が賞賛され、強く持ち上げられればられるほど、たまたま同時期に発表をした怪しげな研究者が注目され下方へと強く排除される。ですから、マスコミ報道のなかでは、山中教授が持ち上げられている強度 intensité と怪しげな研究者が押し下げられている強度とが、見事に比例しているように見える。もし、山中教授の受賞がなければ、普通だったら無視されていたはずの発表が、彼にとっては運の悪いことに、山中教授が持ち上げられた分、強く下方に排除されてしまったわけです。このように、集団とはその無意識によってその都度突き動かされてゆく、いってみれば実にいい加減な性質を持っていますから、恐らく山中教授のノーベル賞受賞熱が冷めてゆくにしたがって、この怪しげな研究者の話題も出なくなると思います。
正常な集団の異常性
ヒトラーが典型的な例ですが、大衆に熱狂的に持ち上げられる人物が出てきた場合には、その背後に必ず下方へ排除される対象が出てくる。現在の日本の政治のなかで、この力動を巧みに利用しているように見えるのが、日本維新の会の橋下さんです。下方へ排除される対象は与党民主党を初めとする既成政党です。既成政党を下方に排除すればするほど自らは上方へ押し上げられてゆく。第三項排除効果を巧みに利用しているかのように見えます。そして、自分たちこそが正常と信じている民衆は、正常であるが故に、この第三項排除効果に知らずのうちに荷担してしまうことにもなる。
このような第三項排除効果は、元々は個人の心のなかで常に生起している現象なのです。信念とか、真理とか自分が絶対的に正しいと思う強さが強いほど、それに相反するものに対する憎しみや排斥の感情も強く生じます。
三項関係と微分
根本的な問題は、そもそもこの「第三項排除効果」という力が、なぜ生じてくるのだろうかということです。ものとものの関係、あるいは出来事と出来事の関係、あるいは事象と事象の関係等々、対立する関係のなかで生じるズレを、言語学では差異 diférence と呼んでいます。つまり差異とは、相対する質や次元の境目のことであり、あらゆる現象相互において生じている断層のことだと思っていいでしょう。しかも、この境目や断層は形相 forme であって、実質 substance ではありません。
最初に差異が生じている段階、まず一番目の差異が生じている段階は「二項関係」です。論理学的に言うならば「この世にはAかBしかない」という仮定が真である場合、AでなければB、BでなければA、という考え方です。このような二項関係ではまだ集団を作ることができません。集団の成立に必要なのは、二項の関係の外に立ってその二項を客観化できる第三項の存在です。比喩的にいうなら「テーブルの脚は三本以上ないと立たない」と表現できるでしょう。つまり線が面になること、一次元から二次元へ移行することが、二項関係から三項関係への移行を意味します。二本脚のテーブルは立たないのです。つまりテーブルが安定するための平面が決定されるためには最低三本の脚が必要なのです。つまり、第三項排除効果というのは、二項関係のままでは不安定な関係性を安定させるためのメカニズムとして考えることができます。
三本脚のテーブル
ところで、クラインの壷を数学的に一回微分すると何になるか知っている方いますか。次元を一つ下げると。
ーーーメビウスの帯。
そうですね、メビウスの帯。要するに次元が上がる上がらない、二項関係が三項関係になるというのは、数学的な考え方をすれば微分 differentiation です。ですからソシュールが行なったことは、誤解を恐れずにいうなら、言葉における微分学なのです。ですから先ほどの話に戻ると、二項関係は二本脚のテーブルのように安定しない。最低三本必要。そこで何が起こるかというと差異の差異化が起こるのです。
集団でいうならば、そこに二項関係の人間がどれほど集っていても集団は形成されない。例えば、誰か一人ご友人を誘って来てくださいというパーティーがあったとします。集合した二人組が、二人だけで会話をしているうちは集団を形成しません。二人組相互がコミュニケーションを持って、初めて集団へと変化してゆく。もし、その中で選挙をおこなって全体の会長を決めましょうということになると、事態は変わってきます。二項の外に会長という第三項が出現する。ここで生じているのは、二項関係から三項関係への移行による集団の成立です。会長が選出されることで、集団はその基本条件を満たして安定する。と同時にどこかで「生贄の山羊」の候補も同時に選択されてゆく。
集団療法と三項関係
今見てきたように、いわゆる「正常」と見なされている集団も、子細に観察してみると、大抵の場合、上方排除と下方排除の力によって支えられていることがわかってきます。そしてさらにいうなら、実はこの上方排除、下方排除というのは、言葉を話す人間が、それと知らずに無意識のうちに従っている集団安定化のメカニズムに他なりません。ですから、集団心理について考察する際には、これら二つの排除の力のことを念頭に置いておく必要があります。例えば、精神病院では集団で絵を描いたり、作業をしたりといった集団療法(グループセラピー)をおこないますが、その場合に、精神科医、臨床心理士といった医療スタッフが主導権を握るのではうまくゆきません。よく見かける過ちは、重症の精神病の患者さんばかりだからということで、医療スタッフがそこで第三項の役割を果たしてしまうことです。おこなわなければならないことはむしろ逆で、スタッフは下方排除の生け贄の役割を果たすこと。例えば、ひたすらお世話係に徹する、ひたすら奉仕する。ひたすら献身的に振舞うこと。ですから、会場の準備をしたりとか、気を遣って患者さんに細々とした下準備してあげると、患者さんのなかから自然とリーダー役の人が出てくるのです。つまり、病者の集団のなかから自然と上方排除の力が生じてくる。実際は、この誘導は容易なことではありません。しかし、そのような内部から発生する力をうまく誘発することができたとき、集団精神療法の力動の醍醐味を味わうことができます。つまり、病者は集団のなかで自己の役割を悟り、精神病に特徴的な強固な自閉に緩みが出てくるのです。まだまだ、このようなメカニズムを意識して取り入れている施設は少ないと思いますが、これは真面目に考えてゆかなければならない大切な問題です。ですから、集団療法を形式的にやってもあまり意味がありません。集団で絵を描かせてハイ終わりでは意味がない。そこに三項関係を作り出すようなメカニズムを発生させることが集団療法の一番の要になります。