公開セミネール記録
「セミネール断章」
『治療技法論』


2012年8月


講義:藤田博史(精神分析医)



セミネール断章 2012年 8月4日講義より


講義の流れ〜第8回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜


第8講:「schizophreniaの治療技法」



schizophreniaの神経化学的解明→schizophreniaと薬物中毒→フレッシュな状態とは→「統合失調症」という名称と隠蔽→夢と幻覚→DSM-Ⅳの診断基準→オイゲン・ブロイラーの定義→ウジェーヌ・ミンコフスキーの定義→ヒューリングス・ジャクソンとアンリ・エー→単純型分裂病について→コンラートが語る「分裂病のはじまり」→世界の崩壊とは→フランスの治療と日本の治療→フランスの単剤療法→日本における隠蔽体質と幼児的な欲望充足→精神分析におけるschizophreniaの定義→原抑圧と後期抑圧→排除と言語能力→原抑圧の解除と排除されたものの回帰→schizophreniaと性差→覚せい剤の症状との違い→騙されないということ→信じるものは掬われる→分裂病者と病識→多世界論理の利用→構造と数列→病的幾何学主義と数列主義→forclusion の構造→精神分析とschizophrenia →OSの再起動と心的なシステムの再起動→逆狂性健忘という症例→ジョイスとサントム→補填と生命→治療と飼い馴らしの違い→母と子の共犯関係と日本的心性schizophreniaの治療技法→睡眠と退行→治療と飼い馴らしの違い→二項関係と隠し事→サンブランの帝国 l'Empire des semblants →二項関係とサンブラン→いじめと第三項排除効果→母と子の共犯関係→尊重するすることと馬鹿にすること→論理を組み立てることの必要性→数学と論理→考えることのむずかしさ→イマジネールな反復強迫→読書感想文と思考統制→学校と情操教育→イジメと超自我→共犯関係としてのDV→apprivoiserと人間の自由



精神分析における schizophrenia の定義



「心を病む」とはどういうことか。古今東西、この問題については様々な考え方がなされてきました。もちろん精神分析においても然りです。フロイトに始まり今日に至るまで、様々なアプローチがされてきました。
問題を schizophrenia に限っていうと、ラカン派の精神分析で schizophrenia の基本病理として考えられているのは、皆さんもよくご存じの forclusion という考え方です。日本語では「排除」と訳されています。forclusion とは、取っておくとか、入れないでおくという意味のフランス語の名詞で、当の取っておかれたもの自体は forclos といいます。つまり schizophrenia の根底には forclusion という構造的な原因が潜んでいる、というのがラカンの主張です。forclusion を簡単に説明するなら、ヒトが言葉の世界に参入する時に、最初の言葉(厳密にいうなら最初のシニフィアン)を身体に取り込むことができず、留保されてしまう状態のことをいいます。

原抑圧と後期抑圧



生後半年から一年半くらいの間、わたしたちが言語を獲得する時に生じるのが「抑圧」という心的メカニズムです。「抑圧」については次のように考えると理解しやすいでしょう。すなわち、常にあるデータが意識のなかに保持され続けているとすぐにその許容範囲を超えてしまいます。当然のことですが、意識された体験のすべてを常時意識のなかに保持しておくことは不可能なわけです。意識が満タンにならないように、データを意識の外へ、いわば意識されない領域のなかへ格納する、いってみれば、意識の光の当たらない、心の倉庫のなかへ言葉を入れてゆくのです。この倉庫のことをフロイトは「無意識」と名付けました。つまり獲得した言葉は無意識の倉庫のなかへ蓄積されてゆくことになるのですが、実はこの倉庫というのは、入り口から押し込むだけではうまく入ってゆかないのです。なにか内部から引っ張るような力が必要であるとフロイトは述べています。ヒトが最初の言葉を獲得する時期は、ラカンのいう鏡像段階に重なっているのですが、恐らくこの引力の出現は鏡像段階に生じる危うい二項関係と無縁ではありません。つまり、鏡像段階では、いってみれば鏡の向こうに現れる対象との間に、想像的、二項的=決闘的 duel な危機的な関係性が生じています。つまり子の心的世界では、極端ないい方をすれば、殺すか殺されるかという、他者廃棄が自己殺害に通じるような耐え難い状況が生じているのです。この耐えがたい状況から子を救い出してくれるのが言葉すなわちシニフィアンなのです。フロイトが「快感原則の彼岸」のなかで記述した子どもの一人遊びがまさにこの危機的状況をシニフィアン(音素の対立)に置換する現場だと考えられます。母親が不在でひとりぼっちでいるときに、糸巻きをベッドの下に投げ入れては引き戻すということを繰り返しながら、同時に fort および da と発音する。 このo/aの音素の対立が、母の不在を補填し、その後の世界形成の基礎となるのです。音素の対立とは、言語学的ないい方をすればシニフィアンという差異 différence のことですが、子のなかでは fort-da と発音した瞬間に世界が二分されているわけです。そして世界と自我がシニフィアンという材料によって同時に構築されてゆき、脳を含む身体に記憶として刻まれていくわけです。この時、最初に生じた抑圧をフロイトは「原抑圧 Urverdrängung」と呼んで、その後に生じる「後期抑圧 Nachverdrängung」と明確に区別しています。そしてこの原抑圧こそが、われわれが言語の世界に第一歩を踏み出した印に他なりません。


フロイトの鋭いところは、先ほども指摘したように、原抑圧が生じるには、ある種の引力が必要であると考えたところです。フロイトは押さえつける力だけでは原抑圧は起こらないだろう、中からの引力を想定しなければいけない、と言っているのです。大変興味深くかつミステリアスないい方です。身体の側から、ラカン流に言うと、シニフィアンを引っぱる引力のようなものを想定しないと原抑圧をうまく説明できない、といっているのです。わたしたちの課題は、このフロイトの予測を証明すること、すなわちこの引力に相当するものが何であるのかを突き止めることです。

排除と言語能力



この引力に相当するものについては、わたしにはひとつの回答があります。結論から言えば、この引力はソシュールがその言語学を説明するために用いた「ランガージュ(言語能力) langage」 と密接な関係があると考えています。ランガージュというのは、単なる発声の差異ではなく、差異の階層構造をもつ言語を使いこなすことができるヒト固有の能力のことです。そして、類人猿にはできなくて、人類だけが言葉を覚えることができるのは、この最初の引力の出現にかかっている、とわたしは考えています。ですから、もしチンパンジーにこの最初の引力を生じさせることができれば、言語を獲得させることも可能になるかもしれません。いずれにしても原抑圧が生じる。そして一旦原抑圧が生じると、芋づる式に、それに引きずられて、そのあとの抑圧が次々と生じる。その結果、無意識のなかにシニフィアンの一つの動的な集合ができあがっていく。それが言語の体系です。


「排除」というのは、この最初の原抑圧の形成に失敗する状態のことです。つまり原抑圧がなんらかの形で不完全なままになっている。この不完全な状態を引き起こす要因には二つあります。一つは、外部からの圧力、絶え難き現実、母親がいないという現実を言葉で置き換えるという外的な要因、もう一つは、内部から牽引するような引力の要因です。もしかしたら、この引力の要因が、身体的なもの、つまり分裂病は遺伝するのではないかとか、分裂病の家系があるだとか、そういう身体的な要因と結びついている可能性があるかもしれません。これら二つの要因によって原抑圧が生じると考えるのですが、この原抑圧が何らかの形で不完全なままの人がいるわけです。例えば、分裂器質とか、前分裂病状態と診断される人たちもその一群であると考えられます。比喩的な表現をするなら、圧力鍋の蓋をセットしたつもりだったのだけど、ロックがうまく掛かっていなかった場合。例えば、カレーや煮物を作る時、ロックが不完全なまま加熱し続けると、ある時点で吹き出して中身が溢れて飛び出してくる。いってみれば、これが「原抑圧の解除」という状態です。ちなみに原抑圧に対する「解除」という表現は、1990年に『精神病の構造』のなかでわたしが採用したもので「原抑圧の解除」に相当するフランス語は dégagement du refoulement originaire といいます。この本のなかでは、原抑圧の解除というメカニズムによって schizophrenia が発病するという仮説を紹介しています。この解除が起こると、無意識のなかに閉じ込められていたものが再び意識のなかへ侵入してくるのです。先程申し上げたような、朝起きたら「世界の様子がおかしい」というような状態がそうです。これは原抑圧の解除が始まりかけている。つまり本来は無意識のなかに格納されているべきものが出てくる。


原抑圧の解除によって世界はどのように変容してくるのか。わたしたちが構築しているこの世界というは、いってみれば知覚によってつくり出されたスクリーンですね。スクリーンにいろいろな建物が映ったり、家の中のものが映ったりしているわけです。これは、実際、網膜に映っている訳だから、まさにこの比喩は文字通りのものと思うのですけれども、そのスクリーンの向こう側で原抑圧の解除が起こっているから、そのスクリーンの向こう側で何かがうごめいている。つまり風景は同じなのだけれども、その風景の背後にあるものが何かざわざわしてくる、何かおかしなことになっているということに気づくのです。そしてだんだんその漏れが強くなってくると、さきほどいったような妄想知覚 Wahnwahrnehmung が起こってくる。そうなると偶然に観察された客観的事実が、必然的な主観的な事実として、つまり自分と関係があるものとして映ってくる。「この車のナンバープレートはわたしの運命の日を暗示している」等々、自分の内部から出てきたものなので、必ず自分に関係があるものとして生じてくるのです。知覚された事実は外部にあるのですが、その外部に対して病者の内部にあるものが投影されているのです。ですから自分の内部で自我に対峙して起こってきているものが、外界の変化として認識される。そうすると「世界の様子がおかしいぞ」「今にも世界が崩壊しそうだ」という危機的な状況が生まれるわけです。それはまさに正しいわけです。なぜなら、今まさに心的な構造が崩壊の危機に晒されているのですから。

原抑圧の解除と排除されたものの回帰



精神分析では、原抑圧の解除の原因の一つは、その根底に排除が生じているからだと想定されています。先ほどの圧力鍋の喩えでいうと、セブの圧力鍋にセブの蓋をしなければいけないのに、セブの製品にとてもよく似た他社の製品の蓋を間違えてかけてしまったとします。本来つけておくべき蓋ではないから、きちんとロックが掛からない。本当の蓋は排除されている。精神病が発病して中身が漏れ出てくると「あっ、これは違うぞ」と本来の蓋を持ってきて閉じようとするのだけれど、既にもうブツブツ吹いていてうまく閉じることができない。しかし懸命に閉じようと努力する。そうするとその努力が妄想や幻覚という形になって出てくる。つまり、とりあえず中身が吹き出ないように蓋をするのだけれども、その蓋に無理がかかってそこから妄想や幻覚が吹き出してくる。つまり幻覚や妄想は schizophrenia がこれ以上進行しないようにするための営為、努力として考えることができるのです。ラカン派では、この本来の蓋が後から用いられようとすることを「排除されたものの回帰」という風に呼んでいます。


ただ、この構造仮説じたいはシンプル過ぎるし、改善の余地もあるでしょうし、ある意味間違っている可能性もあります。ですから「排除されたものの回帰」を一つの宗教の教義のように信じることは危険でしょう。これはあくまでも基本的に精神分析的に考えるとしたら、こういう風に考えることができる、という一つの仮説に過ぎません。ただ、今のところ、こういう仮説を取り入れることによって schizophrenia で起こっている事態について、かなりうまく説明出来ることもまた事実です。この構造的な仮説の詳細について興味のある方は、わたしの『精神病の構造』をご覧になってみてください。

schizophrenia の治療技法



時間も少なくなったので、総括的な話をすると、schizophrenia の治療技法において重要なのは、抽象的ないい方になりますが、①としては、われわれが夢から覚めるように分裂病者が夢から覚める、夢から覚ますこと、これがまず①です。②番目はその①を行なう手段として「退行」を利用すること。もちろん手段は退行だけではありませんが。③番目に補足として、この退行の典型例は睡眠であるということ。ですから「逆狂性健忘 retropsychotic amnesia」の患者さんの例のように、不可逆と思われていた慢性の精神分裂病の患者さんが突如として正常になる。ある朝起きてきて突然「わたしはどうしてここにいるのですか?」と病棟の看護師に声を掛ける、といったことが起こる。一般的に、睡眠というのは心の病を自己治癒させる方向へ働いていると考えられます。

睡眠と退行



つまり、睡眠とは、重要な退行現象の一つなのだ、ということをしっかりと把握しておく。そしてその睡眠に相当するような退行現象を精神分析的な手法で確実に引き起こすことができるようになれば、おそらく精神病、躁鬱精神病も含めて、われわれは精神分析的な技法としての精神病の治療技法を確立することも不可能ではないと考えています。

治療と飼い馴らしの違い



聴講者 先生、あの、森田療法ってありますよね。あれは確か最初の一週間に絶対臥褥期といって、ひたすら安静にしているのですよね。だから森田療法がどのぐらい効果があるかわからないですけれど、あれは schizophrenia に対する治療法ではないですけれど、一理はあるような気がしますが、いかがでしょうか?


森田療法というのはさっき申し上げた「飼い馴らし」の一手段と考えた方が良いでしょう。つまり治ったかのように見せかける方法です。何故か、それは自我に対する治療法だからです。自我というのは、いってみれば柔らかい粘土と同じで、ある程度可塑性があるのです。森田療法は自我に働きかけて内観的な反省を生じさせ、自我を矯正する技法です。例えていうなら粘土細工です。歪んだ粘土細工を「正しい」粘土細工へと作り変えてあげよう、という、多分に治療者の欲望が関与する治療技法なのです。わたしにいわせれば、あれは要するに「飼い馴らし療法」の一つだと思います。サン・テグジュペリの『星の王子様』のなかに登場する狐が、自分は飼い慣らされてはいないという意味でこの言葉を使っているのですが、皆さんのなかで「飼い馴らす」という意味のフランス語をご存じの方おられますか?


聴講者 apprivoiser


その通り。通常、動物を家の中で飼い馴らす場合は「家畜化する domestiquer 」という表現を使います。ですから家畜として飼い馴らされた動物のことを、les animaux domestiques と呼んだりします。つまり人間の生活パターンのなかへ組み込まれた動物という意味です。一方、apprivoiser には、目に見えない力で心的に飼い主に従属させられた、といったニュアンスがあります。メンタルに飼い馴らす、手なづける、という意味です。重要なのは「飼い馴らす」ということと治療とを混同してはならないということです。『星の王子さま』という物語の凄いところは、この飼い慣らすという表現が狐の口を借りて出てくるところにあります。狐は「僕は飼い馴らされてなんかいない」といいます。人間に飼い馴らされるとろくなことがないわけです。ですから「飼い馴らされないこと」というのが、実は治療する側にも治療される側にも、心得ておかなければならない重要なことになります。


にもかかわらず、現実には、飼い馴らすことイコール治療だと思っている人が少なくありません。政治家もそうです。狡猾な政治家であればあるほど国民を飼い馴らそうとしているようなところがあります。われわれは飼い馴らされないように絶えず注意を払っていなければなりません。助成金などという飴を差し出して、原発を抱える自治体の人たちや、沖縄の人たちを、うまく手なづけて飼い馴らそうとしています。あたかも子どもを手なづけて支配下に置く母親のように、ご褒美を与えて国民を飼い馴らそうとしているのが日本の官僚だと思ってよいでしょう。官僚というエリートの集団の発想は、まさにそれが母の欲望にちゃんと答えてきた模範生としてのエリートであるゆえに、母親拘束から抜け出ていない人の集団だという風に考えるべきでしょう。母親拘束のなかで育ってきた優秀なエリートたちは、今度は自らが母親と同一化してその位置に立ち、迷える子羊たる国民を飼い馴らそうとするようになるのです。

二項関係と隠し事



飼い慣らされないようにするためには、まずは隠し事をなくすということが重要になってきます。隠し事というのは基本的に二者関係のなかで生じる事柄です。第三者という証人の登場によって隠し事ができなくなります。ですから、隠し事とか秘密というのは必ず二者関係の中で成り立つ二項対立的な一つの戦略なのです。例えば政府と国民、官僚と政府、なども二項対立的な秘密保持の関係です。政府が国民に知らせていないこともあれば、官僚が政府に知らせていない秘密もある。そこへ第三項が入ってくることによって秘密の保持ができなくなる。これが真の社会性というものです。ですからそういう社会性がきちんと発達してくれれば、怪しげな隠し事がなくなる。つまり情報は情報としてきちっと出すということが当然になるのですが、この「情報を出す」ことを保証する第三項が日本には欠けているわけですから、ばれなければ大丈夫、知らせないでおいた方がよい、などという一方的な論理だけに裏付けされた不均衡な二項関係が生じる。例えば、アルコール中毒のご主人を抱えた奥さんが「もう、あの人は本当にしょうがないのよ」と不平をいいながらも酒を買い与えていたりする。心理学では「共依存(関係)」といったりしますが、精神分析的には「鏡像関係」というべきでしょう。つまり二項関係の人間関係の在り方から離脱できていないゆえに生じる関係性です。離脱できない原因として考えられるのは、意味を生成する力が弱いということです。意味を生成する力が弱いと、論理ではなくて印象や感情と結びついた見かけ上のものが価値を持つようになる。そういう見かけ上のものを精神分析ではサンブランと呼んでいます。

サンブランの帝国 l'Empire des semblants



ラカンは日本を「サンブランの帝国」と表現しました。これはロラン・バルトの『記号の帝国 Empire des signes』を捩ったものです。 ラカンは日本的なものの本質が「サンブラン=見せかけ」であることを見事に見抜いています。意味を生成するシニフィアンとは異なり、見せかけゆえに連鎖せず、論理を構成することもできない。例えば先ほど述べた「統合失調症」という名称は「見せかけ」です。その名称のなかに病の本質を表わすものは何もありません。そもそも統合が失調する病気ではありません。むしろ統合しすぎるといった方が適切かもしれません。しかもこの用語は schizophrenia の翻訳にすらなっていません。このように、この国では「見せかけ」が巧みな形でわたしたちの日常生活のなかに侵入してきているので、日頃から注意深くシニフィアンとサンブラン(見せかけ)を峻別していないと簡単に騙されてしまいます。


聴講者 サンブランというのは諸要素が差異の体系を構成しないのですか。


差異の体系は構成しています。ただし、構成してはいるのだけれども連鎖はしないのです。たとえば日頃使っている言語のなかにもサンブランは大量に混ざり込んでいます。例えば名詞、ものの名前そのものは厳密ないい方をするならサンブランなのです。そして名詞を結合させていくと文になる。「わたしは何々である」という風に構文の形を取ることによりシニフィアンの連鎖が生じてくるわけです。ですから実は、シニフィアンの連鎖、シニフィアンの連鎖と言っているけれども、そのなかにはサンブランが織り込まれているのです。ただ、一般的にはそういうものも含めてシニフィアンの連鎖と呼んではいますが、厳密にいうならシニフィアンの連鎖のなかにサンブランが取り込まれているというべきなのでしょう。ですから単独で、たとえば名詞をどれだけ列挙しても意味を伝えることはできないのです。意味らしきものは伝わるかもしれません。例えば「尊敬する人 毛沢東 好きな色 赤 読んでいる新聞 赤旗」というと、何となく意味がわかってくるけれども、それは意味を生成しているわけではなくて、一対一対応によってサンブランを見ているのです。


聴講者 シニフィアンは第三項を経由しているけれどもサンブランは経由しない?


その通りです。ですから、シニフィアンが連鎖するためには必ずそのシニフィアンが参照するべき第三項が必要になってきます。つまり「法」が必要になってくるのです。言語の構造じたいは、象徴平面がこうあるとしたら(図1)シニフィアンがどれだけ多数あっても、単独でバラバラのものは連鎖し得ません。連鎖するには、一つ一つのシニフィアンがある特権的なシニフィアンに結びつけられていなければならないのです。こういってよければ、シニフィアンはある使命を帯びて初めて連鎖するのです。その使命というのは、その象徴平面の外側の第三項から与えられている隠喩的な拘束です。つまりそれぞれのシニフィアンは第三項の隠喩という資格の下に、相互に連鎖し得るのです。ちなみに隠喩はフランス語でメタフォール métaphore といいます。シニフィアンとして機能するにはまず隠喩であることが必要条件になります。つまりシニフィアンが連鎖して意味が生成されるためには各シニフィアンがまず第三項の隠喩として成り立っていることが前提条件になります。第三項の隠喩であるという資格のもとにそれらが連鎖していく。扇に喩えるなら第三項は要の部分です。その要があってこそ扇はきれいに開く。もし要がなかったら全部バラバラになってしまいますね。


 図1図2



二項関係とサンブラン



一方、サンブランは連鎖しません(図2)。興味深いことにラカンはサンブランがつくり出す煌めく世界を星空 constellation に喩えました。星と星が連鎖することはありません。もしあるとすれば、それは空を見上げた人が意味をつり出すためにそれらを結びつけた時で、それが星座に他なりません。この時星座は何に関連づけられているのでしょう。その答えは「自我」です。星座は、最初に名付けられた時、自我との一対一対応において関係づけられたのです。ですから星座とそれを名付けた人との関係は二項関係です。ですからある人には白鳥に見えてもある人に十字架に見えるかもしれません。その関係は想像的で任意なのです。この関係は想像的な関係であり、意味を与えられた星座は実は自我の置き換えとして機能しているのです。沈んでゆく夕日を見て感動するというのも、そこに感情的なものを読み込む自我の置き換えになっています。そして驚くべきことに、自我と一対一で対峙されたものを確実なものだと思い込み、信じるに値するものであると確信し、さらにはこれを論理の根源であると勘違いしている人がかなりいます。詩人が使うテクニックとして、言葉をあたかもモノのように扱う、というものがあります。この時、言葉は透明性を失い、石ころのようなモノになります。先日のワークショップでお話しした例でいえば、西脇順三郎の有名な詩があります。「『覆された宝石』のような朝」。何となく分かった気にさせてはくれますが、本当は永遠にわからないままです。この「分かった気にさせる」というのがサンブランの本質的な機能です。サンブランで構成された世界は、意味ではなく、雰囲気や感覚で分かったつもりになっている世界なのです。


日本語にはとりわけサンブランが多く含まれており、日本語を話すわたしたちの語りのなかには、こういう疑似論理が数多く含まれています。人を説得する疑似論理というのは必ず情念的なものを伴います。感情に訴え掛けるのです。「大切なものって言葉じゃないよね」とか、「わたしたちはここで一つになるよね」とか、「絆って大事だよね」等々、これらはすべて疑似論理なのです。疑似論理には客観的な根拠がありません。ですからこの想像的な二項関係による疑似論理が横行すると大変危険なことになります。例えば、自我と書いてあるところにヒトラーが嵌まり、サンブランのところにドイツ国民が嵌ったらどういうことになるか、ということを考えてみるとお分かりいただけるはずです。

いじめと第三項排除効果



客観的な支えのない二項関係というものは、基本的に不安定であり、第三項を生み出そうという力を内在しています。これは人類学のフィールドワークなどからも明らかにされています。あるいは社会学等を専攻されている方であれば、ご存じかもしれませんが、この三項関係を生み出そうとする力のことを今村仁司氏は「第三項排除効果」と呼んで詳細な研究をされています。二項関係で成り立っている社会は不安定なのです。誰かが感情的に怒ったとか、あの人との間に感情的な齟齬があるとか、なんかあの人は威圧的だとか、この人は気が弱いとか、そういう人たちを平等な位置に置いておくためには、それらに対する第三項的な場所が必要になってくる。それが内在的な運動によって生成するという考え方です。生け贄の山羊 bouc émissaire とはこの第三項のことです。人類が共同体を構成する時、必ずそういう生贄が必要になってくる。そしてその生け贄が聖なるものへと転化され、第三項の位置から共同体を安定した方向へと導いてゆく。それを今村氏は第三項排除効果と呼んだのです。第三項が現われることによって、人々は同じ象徴平面に立つことができるようになり平和な生活を送ることができる。天皇の下にある日本国民にもこの第三項排除効果が機能しています。そして、いじめ問題も、この必要悪としての生け贄のメカニズムという観点からアプローチしない限り、根本的な解決はできないでしょう。


聴講者 今村仁司さんの「第三項排除効果」は結構有名な理論なのですけれども誰も触れないですよ。


いじめ問題というのはまさに第三項を生み出そうとする集団がつくり出すダイナミックな効果です。つまり誰かが意図的に邪悪なことをしようとしているわけではない。そういう構造のなかに子供たちが置かれているので、無意識的にそういう第三項を排除する効果が働きはじめるのです。これは特定の子どもの問題なのではなく、子どもたちが未だ明確な第三項を持っていないということの証左なのです。特定の学校についていえば、そこに集団から尊敬されるような第三項的な人物がいない、ということが挙げられるでしょう。その原因の一つとして、教師による適切な形の体罰ですら全面的に禁止されてしまったという事情と関係があるのかもしれません。


聴講者 特にそれは閉鎖空間の集合で起こりやすいのですよね。たとえば浅間山荘。連合赤軍のベースキャンプでの同士殺害事件。


そうです。第三項が排除されるためには不安定なグループが必要です。そしてこの第三項はある特徴的な経過を辿ります。すなわち排除された後、集団を支配する第三項へと転化するのです。いったん殺害された生け贄は、尊敬の対象として蘇るのです。つまり悪から善へ、俗悪なものから聖なるものへ姿を変える。キリストの復活がそうです。キリストは処刑された後に復活し、人々によって聖なる場所へと位置づけられた。


聴講者 早い段階で第三項がしっかり排除されている文化においては、比較的その生贄の山羊みたいなものは起こり難くなるということですか。


起こり難くなりますね。既にもう第三項がありますから。


聴講者 逆に言えばそれがしっかりした文化にしなければそういうことがいつも起こり得るということですね。


起こり得ます。ですからこの第三項排除効果というのは、常に日本人であるわたしたちの心のなかでは準備状態になっていて、出てくる機会を窺っていると考えておいた方がよさそうです。


聴講者 それは同質の集団で起こるのですか。動物にもそういうことが起こるのですか。いじめの問題で数年前にさかなクンが書いた文章があるのですが、そのなかで、メジナというさかなを同じ水槽に入れると必ず一匹をいじめる。で、その一匹を取ってあげると、収まるかと思うと、必ずまた別の一匹がいじめられる。広い海の中にいたらそんなことはないのだけれど、小さなところにいると必ずそういうことが起こる。だから人間も同じなんじゃないか、だから広いもっと別の世界もあること、それを見るといいのではないか、というようなことが書いてあったのですが、たとえば動物などにも似たようなことが集団において起こるのでしょうか。


起こると思います。野生の動物の前に大きな鏡を置くと、その鏡に突進したり攻撃を仕掛けたりする。サバンナを旅すると、同種のオス同士がドーンドーンとまるで鏡に映った像のように互いに頭からぶつかっている姿に遭遇します。孤立しているオス同士です。これらが集団を形成するためには、なにか絶対的に強いオスが出現するか、絶対的なメスが出現するかしなければならないのでしょう。いずれにしても、集団形成においては、命令の出される場所が一箇所でないとうまくゆかないのでしょう。指揮命令系統が複数あったら、どれに従ったらよいかわからなくなるわけですから、それをひとつに固定するための運動はおそらくあらゆる生命の中で働いているはずです。


聴講者 三島由紀夫の『午後の曳航』という作品が先生の今のお話を非常にうまく形象化している。第三項排除の話とか、内ゲバで誰か1人が生贄のヤギとなって殺されるとそのあと聖化されるとか。


フロイトも原父殺害、父を殺害するような形で兄弟が結束するというような考え方をしていますね。


聴講者 『午後の曳航』の集団は子どもの小集団なのです。


そうですね。ですから、その子どもというのはおそらく想像的な形によって集団を形成しているということなのですけれども、そこには必ず聖なるものと俗なるものが混在します。つまり、正反対の対というものは、驚くべきことでもなんでもなくて、我々の心のなかにもともと準備されているものだということですね。皆さんがよく体験されていることと思いますが、愛と憎しみという対立する感情は紙の裏表のようなものですね。この愛憎の相互関係はいつ形成されたかのか、というとそれは鏡像段階においてです。つまり生後六ヶ月から十八ヶ月の間に形成されるのです。鏡像関係というのはいうまでもなく二項関係です。その二項関係のなかで、その二項関係が内在している自己矛盾、つまり愛と憎しみが共存するという自己矛盾を内部から解消するための運動として起こってくるのが第三項排除効果です。ですから逆に言えば想像的、情動的な人たちを支配する理論としても使えるわけです。ヒトラーはそれをうまく利用したといえるでしょう。精神分析的にいえば、ヒトラーは民衆にとっての「自我理想」という第三項として機能したといえるでしょう。フロイトの「集団心理学と自我分析」という論文の中にも同様の記述があります。そういう集団として代表的なものとして挙げられるのは、軍隊と宗教団体です。それらはいずれも第三項を立て、それが自我理想の位置に収まり、集団の構成員のそれぞれがそこへ自分の自我を自我理想として投影するという形です。