公開セミネール記録
「セミネール断章」
『治療技法論』


2012年7月


講義:藤田博史(精神分析医)




セミネール断章 2012年7月7日講義より

講義の流れ〜第7回講義(3時間)の内容の流れを項目に分けて箇条書きにしました。今回、「セミネール断章」で取り上げているのは、水色の部分です〜


第7講:「躁鬱病の治療技法」


躁鬱病と双極性障害→分類学としてのDSM-Ⅳ→「悲哀とメランコリー」→メランコリーの語源→悲哀とメランコリーにおける愛の対象→メランコリーと鏡像段階→メランコリーと自我理想→躁鬱病と薬→鏡像段階と退行→非定型鬱病とは→自我の防衛機制→非定型鬱病と境界性パーソナリティ障害→治療現場における実践→SSRI について→口唇愛的なシニフィアン→自由連想による改善→抑圧と備給→抗鬱剤と精神分析治療→自己愛精神病と鏡像段階の向こう側→$◇aと躁鬱病→精神分析家と愛の場所→フロイトとフェレンツィ→父親的な愛と母親的な愛→一番目のシニフィアンと鏡像段階→ベイトソンとダブルバインド理論→フロイトと喪の仕事→構造的メランコリーについて→原父殺害と共同体の喪の仕事→人間の自己治癒力→鬱と薬→シニフィアンとしての症状とサンブランとしての症状→鬱病とSchizophrenia→鬱病の診断→詐病と自我の防衛機制→日本と過剰な親切→理想自我と自我理想→精神分析と真理→鬱病と自然治癒力→行動療法とおせっかい→社会に「入る」ということ



躁鬱病と双極性障害



双極性障害。知っていらっしゃる方も多いと思いますが、アメリカの精神科医が集まって作ったDSM-Ⅳ という疾患分類の基準があるのですが、そのなかで出てくる分類名です。いわゆる診断というよりは分類学です。こういうものをタクソノミー taxonomy と呼びます。昆虫図鑑とか見ると昆虫がいろいろ分類されていますよね。植物図鑑なんて見ると分類されている、そんな分類学です。


DSM-Ⅳはいわゆる躁鬱病という従来から使われていた分類名をなくして、bipolar disorder 双極性障害という病名というか分類名をつけた。その bipolar disorder をbipolar Ⅰ disorder と bipolar Ⅱ disorder とに分けたのです(ホワイトボードに書く)。ホワイトボードに書いているから支持しているというわけではありません。日本語に訳すと双極Ⅰ型障害、双極Ⅱ型障害という名称になります。Ⅰ型障害というのはいわゆる従来言われている躁鬱病に相当します。躁の状態もあるし鬱の状態もある。bipolar Ⅱ disorder 躁鬱Ⅱ型障害というのは、いわゆる従来の鬱状態,鬱病という状態です。そこに軽度の躁状態が入ってきてもかまわないけれども、基本的には鬱がメインという分類の仕方です。


精神科医というのは病気を治すことができないから、診断基準を治してばかりいる。馬鹿げたことです。双極性Ⅱ型障害とか口に出して言うと、素人には「かっこいいな、さすが専門家だな」という風に思われるかもしれませんがこれはとんでもないことです。どうということはない。分類の仕方をいじくっているだけです。問題はなぜそういう病態が起こるかということであることは言うまでもありません。なぜ人は躁になったり鬱になったりするのか、ということが重要であるにもかかわらず、分類学によって目線を逸らされて、病因を探る思考法が密かにスポイルされているわけです。どうしてわれわれは躁鬱病になってしまうのか、どうして躁状態になるのか、どうして鬱状態になるのか、という問いこそが本質的なものです。そのような問いに対する答えを見出すためには、ある程度人間の心的なメカニズムとか構造とか、力動とか、そういうことを知っていないと駄目でしょう。たとえば建物の構造を知っていないと、その建物が壊れかけた時に、どう対処したらよいかわからない。あるいは建物の解体業者ってありますよね、ダイナマイトを要所要所に仕掛けておいて、爆発させて一瞬のうちに建物を崩壊させてしまう。あれは逆に建物の要がどこにあるか知っていないとできないわけです。それと同じで、人間の心的な構造というのは、精神分析の経験からかなりの程度わかってきているわけで、そういう心的なシステムの構造を考慮することなく、見かけ上の観察されたデータによって疾患分類を行なおうというのがDSM-Ⅳです。

分類学としてのDSM-Ⅳ



言ってみれば「ここだよ、ここだよ」と言って派手に見せると、皆の意識がそちらに行くから他が失われてしまうということです。つまりある意味でこのアメリカの疾患分類は目をそらすためのテクニックだと言えるでしょう。精神科医の思考力を文字通り骨抜きにしてしまう。なんというか、思考力を麻痺させてしまう悪しき分類です。


わたしが精神科医になりたての頃に、アメリカでこの DSM という疾患分類の提案がされました。その頃、わたしはフランスにいたのですが、誰も見向きも相手にもしませんでした。精神疾患に対峙した時に一番に大切なのは決して分類学などではないのだよ、と。


もっとも、このDSM-Ⅳというのは、治すための分類学ではないのです。統計をとるためのものです。治療のための分類ではありません。統一した基準がないと、国によって疾患の発病率などの統計を取る時に大きなばらつきが生じてきます。診断基準が国によってバラバラだったら統計をとっても意味がありません。ですからDSMはあくまでも統計をとるための診断基準であって、それ以上でもなければそれ以下でもない。このことをきちんと認識しておかないと、これを何か精神疾患そのものの分類とか、病気を見極める物差しだという風に思ってしまったら大きな間違いです。


たとえば躁鬱病。躁状態ってありますね、躁状態。浮かれちゃっている。でも誰でも振り返ってみたら浮かれちゃっている時ってありますよね。自分の恋愛がうまくいっている時とか、思いがけず宝くじで大金が当たった時とか、結構浮かれちゃいます。逆に、何かひどく悲しいことがあったら沈みますよね。たとえば一番極端なのは自分の身内とか兄弟が突然事故で死んでしまったとか。東北の大震災なんかはそのいい例です。突然天災地変がやってきていきなり自分の親子兄弟がいなくなった、死んでしまったとか。絶望のどん底で朗らかにしている人なんていないですよね。ですからある程度人間というのは躁状態だったり鬱状態だったりということを反復しながら生きているわけです。問題は、正常な範囲内で喜んだり悲しんだりすることと、病気の状態で喜んだり悲しんだりすることというのは、果たして同じなのか違うのかということです。同じという風に考えるならば、振れ幅の大きさの違いだけになるし、違うということになれば、構造的な違いということになります。

「悲哀とメランコリー」



フロイトが「悲哀とメランコリー」という論文ーーー悲哀というのはドイツ語で Trauer という言葉なのですけれども、Trauer というのは、悲哀とか、人が死んだ時に喪に服するという喪とかそういう意味がありますけれどーーー「悲哀とメランコリー」という論文を書いています。60歳過ぎてから書いていると思います。


このなかで、フロイトは非常に興味深いことを言っています。いわゆる悲哀というのは,今わたしが言ったように、身内が死んだとか、愛する人が殺されたとか、そういう具体的な対象物、具体的な愛の対象が失われた時にそこに一つの欠落、欠損が生じる、そしてその欠損を時間をかけて埋めていくまでの過程、これが悲哀なのです。一方、メランコリーというのはそういう了解関係が不明瞭です。しかも失われる対象が具体的というよりも抽象的です。そして精神的な原因に拠っているというよりも、外見上はなにか身体の病気であるかのように見える。本人は何とか治りたいと思っているにもかかわらず、気持ちが極端にずっと落ち込んでしまう、そして動けなってしまう。そういう病態です。ですからこのメランコリーのことを、フランスの精神医学的な分類ーーーアンリ・エー Henri Ey という精神医学者が出しているManuel de Psychiatrie という本がありますがーーーそこでは、躁鬱精神病と書かれています。精神病の一種なのです。psychose maniaco-dépressive 躁鬱精神病。だから精神病とフランスで言った場合はーーー何となく日本で精神病というとわけのわからないことを言い出して、といういわゆる精神分裂病・・・統合失調症なんて訳のわからない名称で置き換えられようとしているけれど、わたしは使いませんーーー精神分裂病だけを思ってしまいますが、精神病ってフランスで言った場合は、psychose maniaco-dépressive つまりいわゆる躁鬱病も精神病として分類されているのです。

メランコリーの語源



Trauer und Melancholie メランコリーという言葉は歴史の古い言葉ですけれども、この語源を知っている人いますか。英語ではメランコリア melancolia と言いますけれど。


聴講者 ギリシャ時代あたりではなかったですか。


そうなんです。ギリシア人は偉かったですね。人間の感情的な部分、人間のいわゆるムード、感情というのは、体内を流れる体液によって左右されるのだという考え方があったのです。たしかガレノスという人が言っていたのだったと思うのですが「体液説」です。四大体液という考え方です。元々は医学の父といわれているヒポクラテスが言い始めたことです。この四大体液とは何でしょうか?誰もが最初に思い浮かべるもの。それは「血液」ですよね、血液。それから二番目にガレノスが挙げたのは「粘液」です。分泌液も含めて、おそらくリンパ液等の成分も予測していたのではないかと思います。


それから三番目が黄色い何々、四番目が黒い何々になるのですが、さてこの何々とは何でしょうか。ヒントは「身体のなかのある消化器官の一つ」です。ここから分泌される液はすごく苦いんです。皆も飲み過ぎた時に出てきたりします。


聴講者 胃液。


胃もそうなんだけど胃よりもうちょっと先の方にある。


聴講者 胆管。


そうなんです。胆汁。胆嚢なのです。胆管というのは十二指腸のところで開いているので十二指腸から逆流することがあります。胆汁なのです。黄色い胆汁と黒い胆汁があるという風に考えられたのです。そうしてこれら四つの体液のバランスによって人間の精神状態が決まってくると考えられたのです。特にこの黒い胆汁が増えてくると、気持ちが沈んできて、憂鬱になると。黒というのは、皮膚に含まれている何とか色素ってありますよね。


聴講者 メラミン。


メラミンは中国人がかさを増やすために粉ミルクに混ぜてしまった樹脂材料です(笑)。正解は「メラニン」です。胆汁。みなさんはギリシア語を学校で教わったことがありますか?幸か不幸か、わたしはフランスの大学で「教養」として無理矢理やらされましたけれども、これが今になって結構役立っています。


ギリシャ語で「黒い」は「μέλας」(melas)、「胆汁」が「χολή」(kholé)、つまりギリシア語から来ています。この二つを結合するとμελας χολη (melas kholé)。つまりメランコリーという言葉の語源は「黒胆汁」というわけです。歴史ある言葉です。


普通の落ち込むとか沈むというのと、メランコリーの落ち込む、沈むというのは根本的に違います。フロイトは次のように考えました。Trauer というのは、具体的な対象が失われて、そしてそのぽっかりあいてしまった穴を時間をかけて埋めていっているその時の状態のことです。ですから、日本語では悲哀とか喪と訳されています。一方、メランコリーは日本語でもメランコリー。あえて訳すのだったら黒胆汁。「ああ、あいつ黒胆汁だぜ」(笑)って言ったら、今は沈んでいますよ、鬱病になっていますよ、ということになります。

悲哀とメランコリーにおける愛の対象



フロイトはどういう風に考えたか。Trauer は了解可能、つまり理解し得るものなのだけれども、メランコリーに関しては非常に病的な要素が強い、という風に考えました。訳もなく沈んでしまう、動けなくなる、死にたくなる、とかそういう状態です。フロイトの天才的なところは、そこで終わらせないのです。何故そんなことが起こるのだろうということを考えたわけです。そうするとどちらも愛の対象が失われていることが見えてきます。「愛の対象」objet d'amour 、Trauer の方は非常に具体的であるのに対し、Melancholieは抽象的だったり理念的だったりします。


仕事に命かけていたのに職を失ってしまったというのもあり得るだろうし、「指原が博多に飛ばされちゃった、もう生きていく望みもない」といった落ち込み方もある。

メランコリーと鏡像段階



メランコリーはどのような時に起こるのでしょうか?端的にいうなら、それは対象が失われた時です。抽象的な対象が失われた時というのは、向こう側にぽっかり穴が空くわけです。ラカンの鏡像段階という考え方がありますが、これは生後6ヶ月から18ヶ月の間、鏡に映った自分の姿に対して非常に興味を示す時期に相当します。この鏡像段階では何が起こっているかというと、これが鏡だとすると、鏡のなかに身体的な自我の像が映るわけなのですけれども、メランコリーでは、この鏡像段階に、つまり生後6ヶ月から18ヶ月ぐらいの発達時期に退行してしまうのです。


退行する。メンタルな状態が退行してしまう。退行すると何が起こるか。この失われた・・・これは自分の分身でもあるわけです・・・この自分の分身に対して二つの取り得る態度があります。この鏡像段階における自分の自我の写しとしての「自我ダッシュ」というかな、この鏡のなかに映っているのは自分なのだから、自分を愛するようにこの上もなく大切な愛の対象であると同時に、鏡のなかの向こうの自分というのは似て非なるもの、つまり自分の強力なライバルでもあるわけです。ですからこの鏡像段階で起こっている関係性というのは、愛憎関係が、愛と憎しみが交互に入れ替わるようなそんな危うい状態なのです。この時にどちらかに偏ってしまった時、たとえばこれが憎しみになってしまった時というのは、鏡のなかの自分の分身を殺害するということが起こります。つまり自分は唯一無二なものなのに、自分と同じものが向こうにいてはいけない。そういうことで憎しみが募る。鏡ですから向こうからもやってくるわけです。自分が殺そうとすれば、向こうもこっちを殺そうとする。これは何ですか。自分が自分を殺そうとする状態つまり自殺です。


ですからいわゆる鬱病、メランコリーにおける自殺というのは、鏡像段階にまで退行した自我が自らに向けて解き放った憎悪の結果として考えることができます。相手に向かって殺害ということは、鏡の向こうから「お前が悪いんだぞ」と言ってくるわけです。要するに本来は自分の場所なのですけれど、ここから「お前が悪いんだぞ」と、「お前が全ての原因だぞ」と、「お前が悪いんだぞ、悪いんだぞ、死んでしまえ」という状況に追い込まれて自殺してしまう。この道がまず一つです。


そうではない道があります。それは何かというと、今は憎しみの方へ傾いた場合です。もし鏡のなかの自分がこの上もなく愛すべき存在で、とっても素晴らしい自分だという風に傾いた場合、つまり愛の方に傾いた場合。そうするとこれは自分にとっての理想です。こういう対象のことを「自我理想」と言います。抽象的なものなのです。自我理想。自分が本当にこうあるべきという愛すべき素晴らしい自分が鏡の向こうにいる。それと自らが一体化する。つまり「自我と自我理想が合致する」ということが起こる。そこで生じてくるのはこの上もない万能感。自分は何でもできる、自分はまさにそうあるべきものであるところの存在、だから自分に恐いものはない、何でもできる、気分も非常に良い、という状態が起こる。つまり鏡像段階まで退行してきた時に、憎しみが優勢になった時は自殺へと導かれてしまうし、愛の方が優勢になった時は躁状態へと進展する。

メランコリーと自我理想



聴講者 自我理想というのは象徴的なもので、理想自我というのは想像的、と先生がおっしゃったことがありますが、この場合は自我理想なのですか?


自我理想ですね。自我理想とは端的にいうなら超自我が提供する自我の理想型です。自我理想は抽象的なもので、それが具体化したものが理想自我です。たとえば「わたしにとっての理想自我は○○△子である」とか、そういう風に具体的に言えるものです。これに対して自我理想というのは抽象的な理想です。この二つの概念を最初に区別したのはフロイトです。自我理想は Ich-ideal 、理想自我は Ideal-ich です。この場合は Ich-ideal 。ですから自殺する人もいれば、万能感に満ちて、お金はじゃんじゃん使うし、お金ないくせに友だちにおごるし、スゴいですよ。大学病院とか勤めていると、突然ビックリするような豪華なお中元とか贈られてきます。しかもそれが理解に苦しむような訳のわからない品物だったりします。数時間以内に食べないと腐ってしまうようなものとか(笑)、そういう訳のわからないものを送ってきたりしますね。


重要なことは、極端に自殺するほどまでに落ち込んでいる人と、朗らかにホイホイやっている躁状態の人は、その根本病理が同じなんだということです。両方ともかなり重症です。少なくとも今述べたようなメカニズムが躁状態、鬱状態の背後に潜んでいるこのだということを見抜いておく必要があります。さもなければ、アメリカの能天気なDSM-Ⅳ のような、 掴まえた昆虫を図鑑と照らし合わせて分類していくような、そういう思考力の欠けた状態に陥ってしまいます。つまり DSM-Ⅳ に関して言えば、これを鵜呑みにするのではなく、常に批判の目で見ておく、ということが重要なのだと言えるでしょう。