⭐️図解 基礎からの精神分析理論⭐️
基礎編 〜フロイト/ラカン理論を藤田理論から読み解く〜
Leçon4 想像的ファルスと象徴的ファルス




榊山裕子



Leçon1では最初に次のように述べた。
「最初に覚えておくべきはファンタスム(幻想)の式である」



また次のように述べた。
「この式の◇の部分は分解できる」

Leçon2では実際にこの◇の部分を分解してみた。




またこのSとSは次のように書き換えることもできることを記した。







Leçon3ではこの式にもう一つ別の記号ーφ(moins petit phi ,
「想像的ファルスの欠如」もしくは「想像的ファルスの欠如の心像」)
を付け加えた。
ーφは「φ 想像的ファルス」が欠如していることを表す記号である。



さらに上の図のうち、aが「現実界」、ーφとφが「想像界」
ΦとAが「象徴界」にあることを示した。


Φとφはともにファルスだが、前者Φは「象徴的ファルス」
後者φは「想像的ファルス」と呼ばれる。
今回はこの両者の違いについて新たに図を用いて
より具体的に説明してみたい。


今回は下の図を用いて、
生後6ヶ月から18ヶ月の間の「鏡像段階(鏡の段階)」
と呼ばれる時期に人間の子供に起こることを解説する


(図1)

まず図1(「セミネール断章 2012年2月講義より」参照)のように
子にとっての「母」と「子」の関係がある。

ただしこの段階では「子」は自分と母、自分と外界の間の差異を
このようなものとして理解しているわけではない。
また自分自身の身体も一つの全体として理解しているわけではなく
寸断された身体として生きていると考えられる。

 この言葉の介入する以前の、欲望が知覚的に描きだされている双数的 duel な情念の境域のことをラカン派では想像界と呼んでいるが、この想像界は象徴界の出現を待って初めてそれと知られるような事後的 après-coup な境域でもある。(藤田博史「アブジェクシオンを超えて」『人間という症候』より)



生後6ヶ月から18ヶ月のこの時期に
子は鏡に映る自分に対して情動的に反応する。 
そしてこの鏡に映る自分は「母の欲望の場所」でもある。

 ここで欲望の関係に注目してみよう。鏡像段階における鏡のなかの像とは自らの身体像であると同時に自らの写しの原本としての母の欲望の場所でもある。すでに象徴界において女性として生きている母の欲望は、自らの場所に欠如するファルスを求める形で構造化されている。つまり母ー子という想像的関係にはすでに象徴的な基盤が入り込んでいる。母はすでに言語の秩序に支配されており、子という動物の欲求を充たしてやる以上に過剰の欲望を注いでいるのである。ここにはすでに「母の欲望を求める欲望」へと発展した子の欲望とファルスを求める母の欲望との間の根本的な亀裂ある。鏡のなかの母の欲望の場所には想像的ファルスが欠如している。(藤田博史「アブジェクシオンを超えて」『人間という症候』より)




(図2)


 図2の矢印に見られるように、母は子を欲望するが、
母はすでに言葉の世界(象徴の世界)に生きているという点で子供とは異なる。この母の欲望は「自らの場所に欠如する」ファルスを求めている。この母の場所における欠如を「欠」として以下の図3
に記してみる。



(図3)


欠けているものを求める母の欲望は
フロイトの用語を用いるならば「ペニス羨望」の延長上にある。

母の欲望に対して、子はその欲望に応えようとする。
それが以下の図4である。

母の欲望は
「自らの場所に欠如する」ファルスを求める欲望であるが
子の欲望は
母の望んでいる「φ 想像的ファルス」であろうとする欲望である。


この欲望をフランス語で
désir d’être le phallus(ファルスであろうとする欲望)
と呼ぶ。


またこの「〜であろう」とする欲望を「存在の欲望」と呼ぶ。


(図4)

こうして子と母の間に欲望の交流が生じる。


母は自分の場所に欠けたものとしての子を欲望し
子は母の欲望にこたえて母の場所に欠如するファルスであろうとする。
欲望の「交流」はめまぐるしく交錯する。


想像的ファルスの欠けた「ーφ moins petit phi」
(想像的ファルスの欠如の心像、
子にとっての鏡像、母の場所に欠如するファルス)と
子にとって自分自身である

φ petit phi(想像的ファルス、小文字のファルス)
下記の図5のようにめまぐるしく交錯する。



(図5)

この二者関係に割って入るのが
Φ grand phi (グラン・フィー 大文字のファルス 象徴的ファルス)
である。
上の図5では母と子の間に割って入る壁のように描かれている。

このΦは先述のように、Φ=S1
すなわち「象徴的な父」としての「第一番目のシニフィアン」である。

こうして「象徴的な父」としての第一番目のシニフィアン(=父ーのー名 Nom-du-Père)の介入、すなわち原抑圧(Urverdrängung)が生じる。ここでアブジェクテされた母の欲望(ーφ)は、ファルスのシニフィアン(Φ)によって抑圧される。この想像界から象徴界への異質な接合によって「母にとってのファルス(φ)でありたい désir d’être le phallus」という「存在の欲望」は、「父のようにファルス(Φ)をもちたい désir davoir le Phallus」という「所有の欲望」に変換される。この「ありたい」から「もちたい」への欲望の形式の変換は、人間の文化を具象化する原動力になっている。(藤田博史「アブジェクシオンを超えて」『人間という症候』より)




母と子の近親相姦的な二者関係の間にΦが割って入ることを
「象徴的去勢 castration symbolique 」と呼ぶ。

つまり去勢とは、母と子の間の性的な関係を断つこと、ざっくばらんに言えば、男の子がお母さんにおちんちんを行使するのを禁止することです。つまり実際におちんちんを切るわけではありませんが、象徴的に両者の関係を断ち切ること、それを象徴的去勢と呼んでいるわけです。ですからΦは象徴的去勢の印になります。発達的な視点から言えば、これは最初に言葉を獲得する段階に相当します。この時に、子は母の代わりに言葉ーーー厳密にはシニフィアンですがーーーを掴まされる。そして目眩く意味に溢れた言葉の世界へ入ってゆくことになる。ですから、子は、本来母を求めていたにもかかわらず、母とは全然違うΦを掴まされてしまう。母ではなく、その代わりのもの、いってみれば母の代理物としての偽物を掴まされてしまうわけです。そこからはもう果てしない偽物の世界。掴んではみたが「これママじゃない」「これも違う」「これも違う」と、欲望は満たされることなく、シニフィアンを連続的に掴み続け、言葉の世界へ入って行くことになる。(「セミネール断章 2012年2月講義より」)

こうして子は母の代わりに言葉(厳密にはシニフィアン)を掴み続け
言葉を獲得していくことになる。



(つづく)






2016 .7