Leçon1では最初に次のように述べた。
「最初に覚えておくべきはファンタスム(幻想)の式である」
また次のように述べた。
「この式の◇の部分は分解できる」
Leçon2では実際にこの◇の部分を分解してみた。
またこのS1とS2は次のように書き換えることもできることを記した。
今回はこの式にもう一つ別の記号を付け加えてみる。
それはーφである。
これはフランス語でmoins petit phi と書き
モワンプティフィと読む。
日本語では「想像的ファルスの欠如」もしくは「ファルスの欠如の心像」などと訳されている。
これは大文字のΦに対する小文字のφにマイナス記号を付けたものである。
大文字のΦ すなわち grand phi の場合はそれが
母子という近親相関的な二者関係の間に割って入ることによって
「象徴的去勢」が行われる。
一方
ーφは、ラカンのいう「鏡像段階」に生じるイメージであり
「想像的去勢」に関わる。
すなわち前者(Φ)は象徴界、後者(ーφ)は想像界に関わるが、
ファンタスムの構造においては、いずれも下記のオレンジの枠のなかにある
「わたしたちが現実に生きている」と思っている「世界」にある。
オレンジの枠内は「象徴界」と「想像界」によって構成されている。
一方それ以外の境域は「現実界」と呼ばれる。
すなわち「斜線を引かれた主体」と「対象a」は
わたしたちにとって見ることも触ることも聞くことも
できない不可能な境域「現実界」にあることが
この図から理解される。
斜線を引かれて抹消された主体が、生の欲動に運ばれて、突き進んで行くその先には、まず「想像的ファルスの欠如」があり、次に「象徴的なファルス」があり、そして言葉で構築された世界があり、そしてその先に永遠に到達できない愛がある、という訳です。したがって、わたしたちが現実に生きている世界とは、このオレンジ色で囲んだ[ーφ ー Φ ー A ]のことなのです。全てが言葉ーーー厳密にはシニフィアンーーーによって構成されている。そこには人間の創り出したものすべて、科学、文化、政治、経済など、すべてがこの中に収まっています。この多様な世界も、それらは決してあらぬ方向に向かっているのではなく、いわば一つの磁場の中にーーー地球に南北に走る磁場があるようにーーー$からa( petit a プチタ)に向かう磁場の中に構成されている。言い換えるなら、世界とは、$ と a で作られる磁場の中で、構成されている象徴的なものの総体なのです。そして人間の創作活動の彼方には「愛」がある。つまり、わたしたちは、愛に導かれて世界を創作し続けている。しかしながら、この愛には永遠に到達することができない。ですからこうなっているのです。(藤田博史講義「セミネール断章」『治療技法論』2012年2月講義より)
この3つの境域は次のように説明されている。
まずRSIのRは、le réel とフランス語で書き
「現実界」と訳される。
それは「身体そのものの境域」であり、
「言葉によっても想像によっても知り得ない
不可能 impossible な境域として想定され、
象徴的に措定されている」。
ちなみに身体そのものの境域を現実界と呼ぶが、これは言語によっても想像によっても知り得ない不可能 impossible な境域として想定され、象徴的に措定されている。精神分析はこれら三つの境域を常に念頭に置きながら個人の発達史を再構成することを目指しているのである。(藤田博史「アブジェクシオンを超えて」『人間という症候』より)
RS I の I は、l’imaginaire とフランス語で書き
「想像界」と訳される。
想像界は「言語の介入する以前」の「双数的な情念の境域」のことである。
この言葉の介入する以前の、欲望が知覚的に描きだされている双数的 duel な情念の境域のことをラカン派では想像界と呼んでいるが、この想像界は象徴界の出現を待って初めてそれと知られるような事後的 après-coup な境域でもある。(藤田博史「アブジェクシオンを超えて」『人間という症候』より)
RSIのSは、le symbolique とフランス語で書き
「象徴界」と訳される。
象徴界は「Φ(真理)とA(Φを除いた言葉の総体)の境域」である。
「象徴界とは、現実界という身体としてこの世に生まれ、想像界という情念の世界をくぐり抜けて主体が到達した境域である。(藤田博史「アブジェクシオンを超えて」『人間という症候』より)
(つづく)
2016.5