最初に覚えておくべきはファンタスム(幻想)の式である。
この式は
「斜線を引かれた主体は究極の対象を目指しながらも
永遠にこれに到達することはできない」
ことを意味する。
これはフランス語で
S〔ujet〕 barré poinçon petit a
と書き
スジェ バレ ポワンソン プチタ
もしくは
エス バレ ポワンソン プチタ
と読む。
これが幻想の式。ファンタスム。これ一つでいいんです。このなかに全てが入っています。これだけ知っていればいい。これが何たるかを本当に知っていれば、あとは何もいりません。例えて言うなら、大型客船でも小さなヨットでも、航路を決めるコンパスは同じです。大海原を、30フィートほどのヨットでも「いってきます」と言って、その ままハワイにでも行ったりできるわけです。巨大な装備はいりません。臨床という広大な海原に出てゆく時も事情は似ています。このファンタスムの式をしっかりと押さえておけば目的地へ向かって確実に進んでゆけるでしょう。但し「しっかりと押さえておく」という厳しい前提がつきますが。(藤田博史講義「セミネール断章」『治療技法論』2012年2月講義より)
これは象徴界から抹消された主体($)と象徴の彼方に見失われた母=他者 autre=愛 amour としての対象aとの関係をあらわしている。(藤田博史『人間という症候』青土社、1993)
次にひとつひとつの記号を見ていく。
まず$
S〔ujet〕 barré
$はフランス語 で「主体」を意味するSujet (英語のSubject)に
斜線が引かれており、日本語訳で「斜線を引かれた主体」もしくは
「斜線を引かれて(象徴界から)抹消された主体」と呼ばれる。
「斜線を引かれた主体」といえば、
では
斜線を引かれる前の「主体」
S〔ujet〕とはなにかということになる。
これは
生れ落ちて言葉の世界に参入する前の一つの身体としての「主体」のことである。
この $ (S barré エス・バレ)は「斜線を引かれて抹消された主体」です。「斜線を引かれて抹消された主体」とは何か。まず斜線を引かれる前の主体ですが、これは誕生してコトバの世界に入るまでの間、まだ言語にわれわれが侵犯されていない間の一つの身体としての主体を意味しています。身体存在そのものとしての主体をこのように定義するわけです。これは科学的な仮説です。そしてその主体が言語を獲得することによって、言語で構成されてゆく自我に取って代わられ、表舞台すなわち象徴界から抹消されるのです。だから生れ落ちて間もない頃の身体としての主体、本来の身体的なレベルにおける主人公としての主体は、言語の獲得と同時に言語外へ放逐され、言語のなかにあらかじめ用意されている「わたし」「ぼく」「自分」というコトバの鎧によって「自我」という元々の主体とは別の主体が形成される。したがって元々の主体は、象徴の世界、言語の世界、舞台から、消し去られてしまっているという意味で、「斜線を引かれた主体」と呼ばれています。(藤田博史講義「セミネール断章」『治療技法論』2012年1月講義より)
次に◇
poinçon
と書き
ポワンソンと読む。
また
désir de(〜の欲望)とも読む。
その場合は
sujet barré désir de a
と読まれる。
この真ん中のポワンソンというのは、学校でこういうの習ったことありますね。ベン図というのですけれども、数学の時に、A∩Bは、とか、A∪Bとか、こういうの習いましたよね。ここの部分のこの形。これは一般的なベン図とは違って、ちょっと特殊な二者択一の方式があるのですけれども、ラカンは「命か財布か」という例で説明し ていますけれども、どちらも失うことができない、でもどちらかをとることもできない。あれかこれかという選択法があるのですけれども、これをラテン語でvel ヴェルというのです。なるほど、この下半分を見るとVの形をしています。意味は「永遠に到達できない」という「不可能性」を表わしています。つまり◇ ポワンソンは永遠に到達 出来ない刻印だと思って下さい。 ですから、この($◇a)が人間の幻想を表わす式になるのです。フランス語ではfantasme ファンタスムと言います。ですから「斜線を引かれた主体は究極の対象を目指しながらも永遠にこれに到達することはできない」という、 このファンタスムの構造が分析家の念頭に置かれているかどうか、これが重要ですね。つまりクライエントに対峙して、このクライアントのファンタスムについて具体的にかつ詳細に肉付けしてゆく行為こそが精神分析の根底にあるのです。(藤田博史講義「セミネール断章」『治療技法論』2012年1月講義より)
錐印(ポワンソン)◇は$とaの一体化の不可能性を告げる刻印である。これは「〜の欲望 désir de」とも読まれ、$がaの欲望のもとにその運動を継続してゆくことを示す数学素 mathème である。◇の下半分の∨は二者択一の特殊系であるヴェル vel を表している。」(藤田博史『人間という症候』青土社、1993)
最後にa
a は、petit a(プチタ) もしくは objet petit a(オブジェプチタ)
と書かれ、日本語訳では一般に「対象a」と呼ばれる。
petit はフランス語で「小さい」という意味の形容詞で
この場合は「小文字の」aという意味である。
objet(英語のobject)は 「対象」の意味である。
aは、autre(他者)のaであり
amour(愛)のaであり
abjet(アブジェ)のaでもある。
一番右側にある a (objet petit a オブジェプチタ)というのは、もちろんこれはラカンが考えだした記号ですが、複数の意味が込められています。最初に挙げられるのが amour (アムール) 「愛」の頭文字としてのa 。それから abjet (アブジェ)。この概念の理解には多少の解説が必要です。単なる対象 objet(オブジェ)ではないのですね。いわばobjet (オブジェ)もどき、オブジェのようでオブジェでない。これを abjet (アブジェ)と呼びます。日本語にすれば「対象もどき」でしょうか。このアブジェはおぞましく堪え難き対象なので「棄却対象」とも訳されています。(藤田博史講義「セミネール断章」『治療技法論』2012年1月講義より)
 ラカンはこの a (objet petit a オブジェプチタ) によって、何を意味しようとしているのでしょうか。端的には、人が、誰しもが求めているその最終目的地、最終的な愛の場所のことです。かつて母が占めていた場所なのだともいえるでしょう。そして、すでに母から切り離され、言語の世界に組み込まれてしまっているわたしたちには、直接それと知覚することのできない領域になっています。(藤田博史講義「セミネール断章」『治療技法論』2012年1月講義より)
(つづく)
2016.2