⭐️図解 基礎からの精神分析理論⭐️
基礎編 〜フロイト/ラカン理論を藤田理論から読み解く〜
Leçon8 「眼」と「眼差し」(1)




榊山裕子




今回からは「眼」と「眼差し」
特に「眼差し」をテーマとした図式を紹介する。


「眼差し」についてはここでは下記の3つのテーマ



(1)四つの基本対象の一つとしての「眼差し regard」


(2)「透視図 la perspective」と「透視図のひっくり返された使用法 l’usage inverse de la perspective」における「眼」と「眼差し」


(3)「眼 œil」と「眼差し regard 」の分裂


及び
それに関連する図を紹介しながら考察をすすめていきたい。


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(1)四つの基本対象としての「眼差し regard」


最初に
四つの基本対象の一つとしての「眼差し」について考察する。
これについては
藤田による以下のような図がある。



(藤田博史』人形愛の精神分析」より)


「眼差し regard」は
「声 voix 」「乳房 sein」「排泄物 excrément」と並ぶ
四つの基本対象の一つである。

「眼差し」と「声」は、生まれたての赤ん坊にとっての
母の眼差し、母の声に相当する。
「乳房」は赤ん坊の口唇が求め吸い付くものであり
「排泄物」は子の「肛門」から出て行くものである。
これらの対象は「対象a」と呼ばれる。

 生まれたばかりの赤ちゃんは、見られている。あらゆるところに眼差しがあると言える。その眼差しのもっとも典型的なものが母の眼差しです。(藤田博史「眼と眼差し、あるいは視的欲望」『人形愛の精神分析』)

人間は最初は「見られる」存在である。
遍在する光のなかで
あらゆるところから眼差しを向けられ
見られていると言える。

この「見られる」を「見る」に「変換する作業」が
最初に起こってくるのが
生後6ヶ月から18ヶ月位の間の
「鏡の段階 le stade du miroir」(鏡像段階)である。

ここで起こっていることは何かというと、初めて自分の姿に出会うという体験をする。自分というものと、鏡のなかの像とを一致させる作業が起こる。鏡のなかの自分は、実は自分であって自分でない。肉体的な側面というか、光のなかに照らし出された動物的な側面を一応鏡のなかに確認しているだけであって、そこに自分がいるということとは別の次元の問題なのですが、鏡に騙し取られ、鏡のなかに写っている姿が自分なのだと積極的に誤解するところから、人間の第一歩が始まる。(藤田博史「眼と眼差し、あるいは視的欲望」『人形愛の精神分析』)


「母親が不在であるときに自分の姿を
そこに見ることが起こる」
この段階に続いて
「母の代わりに言葉を摑む」


こうして母と子の間を断ち切るのは
「父」もしくは「父としての言葉」である。
人はそのとき象徴界に参入する。


欲望のあり方も「存在形」から「所有形」へ
「受動」から「能動」へと変化する。

 言葉を獲得した瞬間に、ファルスでありたいという欲望が、父のようにファルスを持ちたいという「所有」の欲望に変化する。言葉を覚えるということは、人間の欲望にとって大きな変換を迫られる事態です。つまり欲望が「存在形」から「所有形」に変わるということです。(藤田博史「眼と眼差し、あるいは視的欲望」『人形愛の精神分析』)



「視的欲望」においても
「見られる」から「見る」への変化が起こる。

 今日のテーマである「視覚」、「見る」という「視的欲望」は、最初は「見られる」という受動態の欲望であったのが、言語の取得によって欲望の様式が変化すると同時に「見られる」が「見る」に変化する。(藤田博史「目と眼差し、あるいは視的欲望」『人形愛の精神分析』)



 人は「見られる」存在としての自分を抑圧し
観察者として能動的に「見る」という
所有形の欲望を獲得する。
こうして「眼差し」は「見えないもの」となる。


 この「眼差し」の問題を、次に(2)と(3)のテーマから
少し角度を変えてもう一度考察してみることにしたい。


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(2)「透視図 la perspective」と「透視図のひっくり返された使用法 l’usage inverse de la prspective」における「眼」と「眼差し」



(2)のテーマにおいて、まず基本となるのは
ジャック・ラカンの1964年のセミネールの記録
ジャック=アラン・ミレール編スイユ社版の
「セミネール 第11巻  精神分析の4つの基本対象」
に収められている次の図である。





以下はこのテクストの表紙。
表紙を飾るのは
ハンス・ホルバインの「大使たち」(1533)である。





この絵も「眼差し」のテーマにとって重要であるが
それについては次回以降に説明する。


今回はまず上記の図に訳語を加えてみる。



Point géométralは「計測点」
imageは「像」
 objetは「対象」
と訳される。


また英語版では
Point géométralは Geometral point
imageはimage
objet は object 
と訳されている。






Tableauは「画像」
écranは「スクリーン」
Point Lumineux は「光源」と訳される。


また英語版では
 Tableau は Picture
écran は screen
Point lumineux は Point of light
と訳されている。



この両者を重ね合わせた図が次の図である。





Le sujet de la représentation は「表象の主体」
Le regard は「眼差し」
と訳される。


英語版では
Le sujet de la représentation は The subject of representation
Le regard は The gaze
と訳されている。


ラカンによる精神分析理論は
構造主義以降の現代思想にも多大なる影響を与えてきたが
この図はとりわけ美術、映像などの分野における批評理論
しばしば引用され、影響を与えてきた。
特に英語圏における議論が幅広いため
ここでは可能な範囲で英訳も入れておきたい。



藤田博史は『幻覚の構造』(1993)の
「第1章 見えるものの領野の構造」において
上記の図を次のように立体的に描き直している




更にファンタスムの式 aを展開した
「ファンタスムのヴェクトル」を
ラカンの投影図に重ね合わせ
以下のように展開している。















この重ね合わせによって
「眼差し」が

a(対象a)の場所にあることが
文章による説明に頼らず
一目瞭然に理解される。




2016.12