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 一昨年パリで久しぶりにルーブル美術館に行ったとき、興味深い光景に遭遇した。ゆるゆると館内を周り「モナリザ」の部屋に入ったときのことである。
 モナリザは何度か見てきたが、こんな光景ははじめてだった。
 それは、さまざまな国のさまざまな人種の老若男女が一斉にiPhoneやスマホを手に持ち「モナリザを撮っているの図」であった。

 世界中から来た人々が同じ絵を価値ある「芸術」作品として認識し同じ機械で写真に撮る、ひと時代前ならばとてもシュールな、しかし現在ではとても平凡な光景。

 それが面白くてわたしは思わずそれらの群衆をiPhoneで撮った。思いついて撮ったものなのでどれもピンボケだが、後からもう一度見てみるとあらためて感慨深く思えてくるのである。

 たとえば、加藤秀俊は1957年の「中間文化」のなかで、日本の農村に出向いたときの「おどろくべき体験」について書いていた。この「おどろくべき体験」とは、彼が調査に赴いた奈良の村で、コニカのⅡ型という写真機で調査用の記録写真を撮っている加藤に向かって、「その村のある青年」が「それをチラリと見るなり、『ああ、俺の持ってるんと同じや。レンズは2・8やろ』」と言ったというエピソードである。加藤は「むかしだったら、たとえば私たちインテリがカメラをぶら下げて農村に出向いたら、若ものたちは羨望と好奇心をもって珍しげに、カメラという不思議な贅沢品をのぞき見したにちがいない」と感想を綴っている。現在のわれわれはむしろこの加藤の感想の方に驚きを禁じ得ないのだが、しかし、これはわずか半世紀あまり前のことなのである。

 小熊英二はこのエピソードについて「高度成長期以降の日本しか知らない者にとって、このエピソードのどこが『おどろくべき体験』なのかは、理解しにくい。しかし1957年においては、これは第三世界の奥地に調査にでかけた文化人類学者が、調査対象の村民に『ああ、俺の持っているカメラと同じや』といわれた以上の衝撃的事件だったのである」と書いている。60年前はまだ日本国内においてさえ、調査する側と調査される対象の間には大きな障壁があるかのように考えられていたのである。それは都市と農村のあいだ、知識人と労働者のあいだ、西欧と非西欧のあいだ、男と女のあいだなどさまざまな場面においてあったのだろう。しかしその光景はいつのまにか大きく変容してしまっている。

 さて、筆者が見たルーブルの光景は2016年において、別段、衝撃的な光景ではない。ただ少し立ち止まって思い返してみると、この光景が当たり前である時代は少なくと半世紀前には想定されてはいなかったであろうということなのである。

 日常の光景は変わらないように見えていつのまにか変わっている。自分自身は立ち止まったままでも動く歩道の上にいるようにいつのまにか時間に押し流され周りの景色は変わっている。

 ということで、前置きはこのくらいにして、この連載では、筆者が日々の暮らしのなかで遭遇したアートな何かをiPhoneで撮ったものを、ゆるゆるとしたエッセイとともにお届けすることにしよう。

 第一回目は、鎌倉の神奈川県立近代美術館の巻である。

2016.2