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ART ROOM

〜展覧会評を中心に最近のアートの傾向をときどきお伝えします〜

村眞由美の作品と女性の映像作品現在

榊山裕子




 毎週木曜日、夜7時半より、新宿・ゴールデン街にある精神分析的実験バー『クレマスター』にて、精神分析医・藤田博史氏によるフジタゼミが開催されている。そこにトピカというコーナーがあり、2013年6月3日現在で既に375回を数える。これまでにも精神分析家、精神科医、臨床心理士、哲学者、アーティスト、作家、批評家、など各方面の方々がこの場で発表してきたが、このたび5月23日に、京都在住の現代美術家・木村眞由美氏に参加いただき、自作の『Nowhere Girl』(3部作・20分)を上映した後、作家自身による解説をしていただいた。またそれに続く5月30日には、今度は筆者が、現代美術における映像作品と彼女の作品との関係についての発表を試みた。

 木村の作品は現代美術についての予備知識なしに見ても十分面白いが、現代美術におけるさまざまな写真や映像作品や、また彼女が作品のなかで引用しているさまざまな映画やテレビなどの映像との関連を知った上で見ると更にまた別の面白さが見えてくる。つまり一粒で二度も三度も美味しいということである。その面白さを参加者の皆さんに知ってほしいと思い、主に女性による20世紀後半以降の写真、映像作品の一端を紹介し、木村の作品との関連についての解説をその日のトピカでは試みた。今回ここではこの5月30日に行ったトピカの一部再現といくつかの補足を試みてみることにした。


1)木村眞由美作品 Karaoke Actress における金髪のカツラの役割

 現代アートにおいて写真や映像作品は重要なメディアとなっており、女性の活躍も著しい。そのなかには自らを被写体にしたものも多く、木村の作品においても彼女自身が登場する。とくに彼女の作品の特徴は、ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』やTV番組『奥様は魔女』などよく知られた既成の映像が巧みに織り込まれていることにある。既成の映像をヴァーチャル、彼女自身が出演する彼女自身による実写映像をリアルとするなら、ヴァーチャルな世界とリアルな世界がそこでは混在し共存しているといえる。

 まずは百聞は一見に如かずということで、ここではまず「Karaoke Actress」という作品をご覧いただくことにしたい。


karaoke Actress

「女性を描く」から「女性が描く」へ

 さてこの作品は木村眞由美自身の制作作品であるとともにそこに彼女自身が被写体として登場する。このように映像や写真作品に女性が自分自身を被写体としつつ作り手として登場する作品が、美術作品として承認されるようになったのは、写真や映像作品が現代美術のメディアとして、それ自体が1つの美術作品とみなされるようになった1970年代後半以降のことであった。とりわけ写真においては既存の映像や既知のイメージを利用した「引用」的な作品が台頭し「アプロプリエーション・アート」や「シミュレーション・アート」の名で呼ばれた。女性のアーティストでは、その最も代表的な例としてシンディ・シャーマン(1954-)の名を挙げることができよう。シンディ・シャーマンは映画も作ってはいるが、基本的には写真を用いて作品を制作してきた。そしてその写真の主な被写体は彼女自身であった。とりわけ初期の代表作「アンタイトルド・フィルム・スティル」シリーズの興味深い点はそれがどこかで見たような映像、たとえばハリウッド映画などで見たことがあるような映像という既視感を感じさせながらもどこにもオリジナルが存在しない映像であることであった。そしてそうしたイメージが、それまでのように主に男性主体によって撮られた客体としての女性ではなく、女性自身が撮り女性自身が演じることの「新しさ」によって、そこに単なる「引用」に留まらない意味が見出されることになった。そこで描かれているのは「女性性」であると考えられ「見ること」「見られること」「見させること」を巡って、あるいは「女性性」と言われるものがどこまで文化的構築物でありその可変性がどの程度であるかを巡って、さまざまに論じられたのである。ここには女性自身が設定したカメラを通して「見られるもの」としての女性が自らを「見させる」ものとしてそこに立ち表われているとされた。その代表的な例として次のような写真が挙げられよう。

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cindy-sherman-cinderella.jpg


「女性性」のスタンダードとしての白人女性

 シンディ・シャーマンの作品に登場する彼女自身が演じる女性たちはとりたてて個性を持たず、「女性」一般という記号を表すのに最適であるように見えた。少なくともこのシリーズが撮られた1970年代末から1980年代にかけて彼女の作品をそのようなものとして見えていたし、そのようなものと見なされていたと言えよう。男性と女性を比較する時、男性の無徴性に対して女性の有徴性が指摘されるが、「女性」というカテゴリーにおいては、彼女の容姿は無徴であった。それは後から考えれば、彼女の典型的な白人女性の容姿、そしてその金髪によるところが大きかったのではないだろうか。
 もともと西欧由来の「美術」、その「美術」の価値観が「西欧中心、白人中心、男性中心」であるということは、フェミニズムや1980年代のニュー・アート・ヒストリーの台頭によって徐々に明らかになっていったことであるが、この公式は今となっては既にあまりにも見慣れたものであるとはいえ、その効力を完全に失っているわけではない。実際典型的な「女性性」を表すために、彼女の容姿が白人女性の標準的な特に特徴のない顔であることがプラスになっていたということはしばしば指摘されてきたことである。まずこのことを確認しておくのは、東洋人であり、非白人であり、女性である木村氏の、現代美術における立ち位置を確認するためである。すなわち彼女の立ち位置は、その三つの代表的なカテゴリーにおいて、いずれも他者、有徴、被差別者の側にあるということである。

 「女性性」を表現するに際して、それが自然や本能ではなく文化的構築物であるという見識を示すために、それ自体がパフォーマンスであり演技であることを示すために、女性が自らを被写体として映画的あるいはテレビ的な映像のなかに自らを置いてみることは、観衆に女性の置かれた状況を示すための1つの方法と考えられてきた。実際、シンディ・シャーマンが行ったことは、ハリウッド映画のような既視感のある空間に自らの身体を置いてみることであった。そうした舞台装置を作ることによって、観衆はそこに「見られる」ものとしての、対象としての女性を見出すとともに、自覚的にあるいは半ば無自覚に外からの視線を意識し演じる「見させる」ものとしての「女性性」を確認することができた。

 しかし写真と映像作品の違いはあるとはいえ、またオリジナルのないコピーのような、どこかで見たことがあるようで実際には新たに作られた舞台設定によって撮られたシンディ・シャーマンの作品と、実際に既成の映像を用いる木村の作品という手法の違いこそあれ、木村が Karaoke Actress で自らの身体を用いて同様のテーマを提示しようとする時、シンディ・シャーマンには必要のなかった金髪のカツラが必要になること、そこに木村自身の個人的なテーマを超えた問題が横たわっていることを提示しておかなければ、木村の表現は、夢見る女性の単なる変身願望の類として処理されてしまうことになりかねないだろう。

 木村の作品が、複雑で示唆に富み、いろいろな角度から論じることができるにもかかわらず、今回なぜこの作品に登場する「金髪のカツラ」という小道具1つに着目するのか、そこから語りはじめるのはなぜか、その理由もまずここにある。

 この Karaoke Actress という映像が表現しているもの、それはもともとの動機としてはもしかすると女性の変身願望や、父親にとっての唯一の娘でありたいという願望や、理想の王子様を探し求める願望であったのかもしれない。あるいは女性性をそのようなものとして表現しようとしたに過ぎないのかもしれない。しかしここには、そうした理想は理想に過ぎず、ある程度の妥協を経ることによってしかそうした願望は実現しえない(しかし女性らしくいい子にしていれば、高望みしなければ、それなりに幸せにはなれるだろう)というような「女性」向けの「現実的」かつイデオロギッシュな教訓(そしてそのような「現実」に対する女性によるアイロニカルな表現)とは別に、2つの理由が示され、それらが同時にテーマとなっている。1つはハリウッド映画のようなヴァーチャル・リアリティにリアルな人間は入れないというテーマであり、もう1つは、非白人やアジア人はハリウッド映画の主役にはなれないというテーマである。ハリウッド映画の主役になれないということは、その裏テーマ設定として、ハリウッド映画の主人公になるような白人女性を「女性性」の原型と無自覚に見なしてしまうような「西欧中心、白人中心、男性中心」の現代アート・シーンにおいてアジア人の女性アーティストは決して主役にはなれないということ、その有徴性を認めることによってしかそこに参入さえできないというテーマが隠されているということである。だからこそ彼女は白人の象徴としての金髪のかつらを用いて既成の映画やドラマの映像に入り込もうとするが、そこからはじき出されないわけにはいかない。それは単に「テレビの見過ぎ」という問題ではないということである。

シンディ・シャーマンと森村泰昌ーーー白人女性と東洋人男性

 シンディ・シャーマンの作品を意図的に用いてその自画像としての白人女性の容姿を自らのアジア人の容姿と身体を用いて作品化したアジア人は既にいた。それは森村泰昌、彼の性は男性である。その作品が次の作品である。上がシンディ・シャーマンのオリジナル作品、下が森村泰昌による作品である。

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 森村はシンディ・シャーマンや木村同様、自分自身を被写体として使用し、既成の芸術作品や映画や写真グラビアなどのイメージを使ってきた。そしてとりわけ初期においては主に女性に変身してきた。ここで彼の作品がシンディ・シャーマンの作品の単なる剽窃ではなく、別のメッセージを発することが可能だったのは、彼が非白人であることによってシャーマン同様他者の側に自らを置くことができたからであろう。またここで更に興味深いのはこれに相当する作品が日本人の女性からは出てこなかったことである。それは単なる偶然だったのだろうか。
 たとえばノーマン・ブライソンは、マネのオランピアの白人女性と黒人女性を真似た森村を評価して次のように述べている。

   森村について決定的に重要なことは、オランピア/バタフライの役にもぐりこんだ肉体が、アジアの男性のそれだということである。事実、森村の異性装は、西欧中心主義のふたつのアジア像を顕在化している。最初のそれは、女性としてのアジア、蝶々夫人としてのアジア、つまりペリー提督あるいはピンカートン中佐が日本にさしむけた暴力の対象となる生れながらの犠牲者としてのアジア像である。いまひとつのアジア像は、西欧がアジアの男性を女性としてイメージすることと関係がある。森村は彼のアジア人男性としての肉体をオランピアの白い女性の肉体と共振させている。彼はその役柄にみごとに溶け込んでいるのだが、それは彼が偉大なドラッグ・アーティストであるという理由のみならず、西欧の文化的想像力が「アジア」と「女性」を、ともに無力なものという位置に据えているからである。(「MORIMURAー3つの解釈」)

 1996年に発表されたブライソンのこのテクストにおけるアジア像は、中国が台頭してきた現在から見ると幾分隔世の感があるが、ここから理解できるのは、白人、西欧、男性中心の現代美術の在り方を批判しつつまさにその行為によってそこに場所を得ようとするならば、これらの属性のうち1つを持っていればよいということ、むしろその属性を限定した方が理解されやすいということである。たとえば「女性としてのアジア」をアジア人女性が演じる場合を想定するならば、そこではその人物が女性的ポジションにあるのは、女性であるが故に当然と見なされる可能性がある。たとえば非白人の置かれたポジションを描きだしたいと思っても、女性である彼女が自分自身の身体を用いて、アジアの女性的ポジションを、自らの女性という属性と区別して提示することは不可能とは言わないがなかなか難しい。これをアジア人である男性が描けば、男性的ポジションにあるべき人間が「アジア人」という属性によって女性的ポジションに置かれることの奇妙さ、その差別性が際立って浮び上がるのである。このように人種とジェンダーにおいて「日本人女性」は他者の側、被差別者の側に置かれているにも関わらずその二重の差別は見え難くなっている。つまり二重の差別を受けているが故にその問題は鮮明化するどころか逆に両者が重なり合うことによってその一つ一つが弁別し難くなってしまうのである。つまり日本人女性が森村と同じ戦略を使っても、彼女のより複雑な立場を表現することは難しいということである。「女性」というテーマが際立ってしまうことで消去されてしまうのは、非白人、非西欧としての彼女の立場であり、彼女の置かれた複合的な「差別」の状況である。

 さて、ここまで説明してようやく、木村真由美氏の作品において、彼女が装着したり外したりを繰り返す金髪のカツラがただ単にアジア人女性の白人女性コンプレックスや変身願望ではないことが見えてくる。これは何よりもまずアジア人女性の容姿を持つ彼女が自分の身体を用いて現代美術として映像表現するときに生じてくる問題を典型的に示しているのである。


2)木村作品 Interview with the Virtual Critic における Asian artist

誰の評価を求めているのか

 「女性性」「女性としてのアジア」 それらの属性を持つ者が求めるのは何ものかの評価である。その何ものかとは誰か。ジェンダー・カテゴリーとして非男性の位置に置かれたものは、「男性」の指名を受けることによって自己の存在証明を手に入れることができる。なぜなら「普遍」的価値は自分の側ではなく、対岸の男性の側にあるからである。この点において、「女性」の置かれた状況と、男性であれ女性であれ「アジア人」あるいは「日本人」が置かれた状況はパラレルである。また指名を受けるという点において、パトロンとアーティストの関係に似ている。今あえてパトロンと書いたのは、近代以前の画家や音楽家は宮廷や大貴族など特定の人々の庇護を得ていたからである。一方近代以降この意味での「パトロン」に相当する人間は役割ごとに拡散し分散した。作品を買うコレクターはもちろん重要であるが、その仲介をするギャラリスト、権威を与えてくれる美術館学芸員や批評家や美術ジャーナリスト等々も同様に重要である。そのなかでパトロンとしての批評家とアーティストとの関係を戯画的に興味深く顕在化させてみせたのが、木村の小品、INTERVIEW WITH THE VIRTUAL CRITIC である。


Interview with the Virtual Critic

 さて、この作品の冒頭のセリフは西洋人男性の美術批評家らしき人物の次のような質問からはじまる。

 DO YOU CONSIDER YOURSELF A PAINTER OR A BLACK PAINTER?

 それに対する木村演じる女性アーティストの返答は次のようなものである。

 YOU MEAN. I CONSIDER MYSELF AN ARTIST, OR AN ASIAN ARTIST?

 まず奇妙なのはここで批評家が、彼女に対して自分を画家とみなしているかそれとも黒人の画家とみなしているかと尋ねる点である。これは彼女の答と矛盾しているように見える。実はこの質問は、この映像がジュリアン・シュナーベル監督の映画『バスキア』(1996)から来ていることを知れば容易に理解されよう。バスキアとはハイチ系アメリカ人のアーティスト、ジャン=ミシェル・バスキアのことである。彼はストリートペインティグで認められ早くから天才ぶりを発揮し、1988年28歳で急逝した伝説の画家である。白人中心のアートシーンにおいて、黒人の画家がまだ珍しかった時代のことである(もっとも現在においてもその状況が全く過去のものになってしまったとは言えそうにないが)。
 映画のなかのバスキアはここで絵画の問題に話をずらし、黒色だけ使っているわけではなく他のいろいろな色も使っているよ、とジョークで切り返すが、いずれにしても、そこでは女性アーティストが有徴であるように黒人であることにおいてバスキアも有徴となり、彼は画家ではなく黒人画家として遇されていることが理解される。もちろんそれを「偏見」と呼ぶのならばそういう偏見のないパトロンや鑑賞者もいるにはいるだろう。しかし人々の頭のなかに「彼は黒人画家か否か」「彼女は女性アーティストか否か」という質問は思い浮かんでも「彼は白人画家か否か」とか「彼は男性アーティストか否か」という質問が通常は思い浮かばないことを思えば、われわれの時代のわれわれの言語のなかでは黒人や女性が有徴であることに変わりはないのである。そして彼が有徴の黒人画家か無徴の画家であるか、それを決定することはバスキア自身にはできない。それは彼がそれをどう自覚するかという問題ではないのである。重要なのはその既にそこにある不均衡である。それは欧米を中心としたアートシーンにおいてはアジア人また日本人の占める位置と相似する。映画のこの場面もまたこの短いやりとりのなかにそうした複雑なアートの諸相を垣間見させるために存在しているのだし、この批評家の役者にはそうした役割が課されているわけである。
 つまりそこには人種問題があることが、この2つのセリフのBLACKとASIANという言葉によって表されているし、同時にこのBLACKとASIANの両者は異なるにもかかわらず、白人、西洋人中心のアートシーンにおいて、同様のポジションに置かれていることもまた示されているのである。そしてこの短いやりとりのなかで表現されているのはそれだけではない。それはこのせりふのなかに出てこないが映像イメージとしては一目でわかる男性批評家と女性アーティストの関係である。女性アーティストが男性批評家に対して見せる媚びを含んだ目や表情や仕草は、選ぶ男性と選ばれる女性という関係をイメージにおいて暗示している。
 すなわちここには極めて短いやりとりのなかに人種とジェンダーと階級という3つの要素が現われそれが同時的に表現されている。アジア人であることと女性であることとアーティストであること、それらが共に男性白人批評家を前にしたときの彼女の仕草に、重なって表現されているのである。
 更に彼女はそのあと次のように語るだろう。

 I THINK IT IS NOT MY CHOICE ACTUALLY, BUT YOURS.

 それを選択するのはあなただ、と彼女は言う。これはわたしの命運はあなた次第よ、という女性的なメッセージとも見えるが、ここではアジア人アーティストとして彼女を遇するかアーティストとして彼女を遇するか決めるのはあなたであってわたしではないという厳然たる事実が述べられているともとれる。これは決定権はあなたにあると考えるのが彼女の女性的な属性によるものではなく、アーティストと批評家の立場の関係がそのようなものであるということを示している。しかし一方で彼女の媚びを含んだ表情は「女性性」としてあたかもそれが「自然」であるかのように見せる効果を持つ。すなわちここで人は彼女のこの態度は彼女の女性性という属性から来るのか、アジア人という属性から来るのか、アーティストという立ち位置から来るのかわからなくなる。見る側の立ち位置によってその見え方が変わることもあろうし、どの立場を前景に置くかによってこの映像の意味も変わって見えてくるわけである。
 いずれにしてもこの映像と言葉の組み合わせは見る者を非決定な状態に置くということが言える。しかしそれはこの映像のテーマが曖昧であるということではない。
 彼女がこの短いやりとりと映像によってあぶりだしているのは、こうした重層的な「差別」の在り方とそれが複合的であることによってかえって見え難くなっているその差別の重層性そのもの、すなわち彼女が置かれている状況そのものなのである。


3)木村作品 Member におけるメンバーの意味について 

メンバーになること

 このように重層的に他者の側に置かれたアジア人女性アーティストの作品として更にもう一つの作品「Member」を見てみることにしよう。ここでも既成の映画のシーンが使われている。ここではMember になるとはどういうことかということがまずテーマとなっているが、その由来は『アニー・ホール』(1977)という有名な映画の冒頭シーンで主人公が語るセリフにある。

 "I would never want to belong to any club that would have someone like me for a member.”

 「私を会員にするようなクラブには入りたくない」とつぶやく主人公はウッディ・アレン自身であり、彼によればこれはコメディアンのグルーチョ・マルクスの言葉であった。両者がともにユダヤ人であること、またこの映画のテーマの1つが彼のユダヤ人としての来歴に関わっていることを考えれば、このセリフの背景にはユダヤ人差別の問題があることは容易に推測できることである。
 『アニー・ホール』においてユダヤ人男性である主人公は、このセリフは自分にとっては、とりわけ女性との関係においてそうなのだと述べている。そして実際、彼はユダヤ人ではない白人女性に恋をするのだが、映画のなかで、彼女の家、いかにもアメリカ中産階級の豊かな家庭に訪問する際に、彼は自分がそこのメンバーではないことを微妙に感じざるを得ないのである。そこでは画面を半分に区切って彼自身のいささかすさんだ薄暗いユダヤ人家庭と、背景に窓がありその外に広い庭があるらしい明るい緑を背景とした典型的なアメリカの白人中産階級の家族とが同時に映し出されるのである。
 このセリフからこのMEMBER という小品は始まる。そこでは木村自身が幼い頃に見た、彼女自身の記憶によればおそらく一番最初に見た映画『サウンド・オブ・ミュージック』の「ドレミの歌」が流れる。画面のなかの登場人物たちは英語でそれを歌い、彼女はそれを日本語で歌う。彼女は画面のなかの人たちを身近に感じているが、彼女はそのなかに入ることはできない。それを幼い頃に見た思い出とともに、その映像のなかの光景もまた懐かしい思い出として彼女のなかにインプットされている。しかしその光景は彼女のものではないし、彼女はそこに入ることは永遠にできない。


member

 この問題は、先程のヴァーチャル・クリティックもそうだし、彼女の作品全般に共通することだが、20世紀、とりわけ20世紀後半から顕在化した、映像の氾濫する時代の問題と考えることができる。ヴァーチャルなリアリティとリアリティの区別がつかなくなるという問題である。しかし彼女は本当にその区別がつかないのだろうか。そうではあるまい。むしろ問題はそうした映像を介して知らぬ間に植え付けられた憧れや自分もそれになりたいという願望、そして無邪気な思い出と分かち難く絡みついて彼女の心身に侵入し血肉化されてしまったイデオロギーなのではないだろうか。それは白人中心の世界観であるかもしれないし、西欧文化に憧れる戦後の日本人の置かれた位置の再確認であるかもしれないし、女性はこうなることによって幸せになれる、こうなるべきだというお仕着せの価値観なのかもしれない。つまりわれわれが娯楽として楽しみとして見ていたこれらの映像にそうしたいわば「洗脳」装置が入り込んでいたということである。彼女の作品はヴァーチャル・リアリティとされる映画やテレビのなかにあるリアルな「政治性」を垣間見せる。

私的なものは政治的である

 とはいえ、この政治性はなかなか理解されにくいものでもある。なぜなら彼女の問題意識や彼女の具体的な苦しみはたとえば第三世界の女性の問題と比べればそこまで深刻なものには見えてこないからである。その複雑な表現がそれそのものとしては理解されず、混ざってしまった絵具のような、曖昧な中途半端な表現としてしか認識されない可能性がある。

 しかし彼女の作品がその方法において興味深いのは、重層的な問題意識を同時進行で語り続けていることにあるのではないだろうか。先述したように、彼女の作品は、たとえば、既成の映像の引用においてA(ヴァーチャルリアリティ)の問題を、セリフにおいてB(アジア人であること)の問題を、自らの容姿においてC(女性であること)の問題を、というように、それぞれの問題を順番にではなく同時進行的に語らせ、彼女自身が結果として持たざるを得ない複雑な疎外の問題を語っている点にある。わかりやすさを考慮するのであれば順番にそれぞれの問題を示した方がよいかもしれない。しかし彼女の作品の興味深いところはその違いと絡み合いを同時に語っていることにある。それをたとえば女性問題、たとえば人種問題、たとえばヴァーチャルリアリティの問題というように分けて表現するならば、そうした表現はこれまでにもあったし、何よりもそれでは彼女が置かれている複合的な状況を表現することはむずかしいのである。一方そうした状況をなるべく忠実に表現しようとすると、数人の人間が同時に詩を朗読するようなもので、各々の言葉の連なりが意味として理解されずに言葉の断片として音楽のように聞こえてくるように、彼女の映像作品は単なる様々なイメージの断片的な連なり、その意味で女性的な表現と見なされ、自分自身をよくわからずにいる、自らの位置を定め難い、よくある女性の表現という安易な回答に不時着させられてしまう可能性がある。それは彼女の作品の複雑なメッセージ性、私的な小品という見せかけの先にある声になりにくい声、その複雑な意味をそのままに自らを語りはじめ、それがそのようなものとして聴衆に聴き取られる可能性を閉ざしてしまうかもしれないということである。それはあまりにももったいないという思いが筆者がこの小文を書いた最大の動機であった。

 今回は幾つかのテーマ、それも私的ではあるがいささか「政治的」なテーマに偏る形で木村の作品の分析を試みてみたが、もちろん彼女の作品の面白さはそれに尽きるものではない。ただ今回のささやかな論考から言えることは、女性の表現の曖昧さと言われていたもののなかには、女性の置かれた複雑な状況を表現する手段がなかなか見つからないという問題があったのかもしれないということである。それらはここで語りきれるような問題ではないが、この複雑さをそのままに、その問題を共有しない他者に伝えることができるならば、木村眞由美のこれらの作品たちはこれまでにない新しい表現としての輝きを見せるに違いない。