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ART ROOM

〜展覧会評を中心に最近のアートの傾向をときどきお伝えします〜

展覧会REVIEW実験場1950s」~1950年代のアートと現在〜

榊山裕子

 1950年代の日本の現代美術を新たな視点から紹介する画期的な展覧会が、昨年10月16日から今年の1月14日まで、東京の国立近代美術館で開催された。そのタイトルは「実験場1950s」しかし、よほどの美術好きでもない限り、おそらく多くの人はこの展覧会のタイトルを聞いたことがないのではないか。なぜならこれは、東京国立近代美術館60周年記念「美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年」といういかにも広く老若男女にみていただくための企画のなかに潜んでいたからである。

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 この展覧会を紹介した東京国立近代美術館のホームページを見ていただければわかるように、この展覧会は、東京国立近代美術館開館60周年を記念して当館のコレクションを展示したものである。重要な作品は通常は保存の観点から交代で展示されるので、60周年のこの機会にそれらをまとめて見ることができるという意味では、美術ファンにとって興味深い展覧会ではあるが、それ以上の特別な見所はないように見える。たしかに2部構成のこの展覧会の「第一部 MOMATコレクションスペシャル」は、日本近代絵画の100年を扱った理想的な教科書のような展示であった。しかし第2部「実験場1950s」はいささか毛色を異にしていたのである。

 東京国立近代美術館が開館したのは1952年のことである。それゆえ1950年代に焦点をあわせたこの第2部は「近代美術館誕生の時代」を考察する目的であると概要には書かれている。たしかにその通りなのだが、まさにこの1952年に着目することによって、この展覧会は単に東京国立近代美術館の歴史を振り返るだけではなく、日本の戦後美術の原点に迫る貴重な展覧会となった。第1部が絵画中心であるのに比べ、第2部は画、彫刻などの純粋芸術だけではなく、写真、動画映像、雑誌、デザイン、漫画等々の様々な同時代の「視覚映像」を交えての展示となっている。そういう構成方法が斬新なのだろうか。いやこれまでにもそういう主旨の展覧会はあっただろう。しかしこの展覧会にはこの展示方法が不可欠であった。それは1952年という年が、日本の視覚芸術にとって特別な意味を持った年であったからである。

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実験場1950sのちらし


 1952年、それは日本が敗戦後ようやく独立を、国家としての全権を回復した年である第2部「実験場1950s」は10のセクションからなっており、最初のセクションのタイトルは「原爆の刻印」であるまず会場に入ると、正面に1台のビデオモニターが置かれ、動画が映し出されている。タイトルは「朝日ニュース第363号『原爆犠牲第一号』」1952年の白黒のニュース映像である。それは、この時期に落成した原爆慰霊碑の除幕式の紹介をしながら、それまで一度も公開されることのなかった映像を流したニュース映像である。画面は淡々と流れていくのだが多くの人が足をとめている。そこには原爆投下後の広島の生々しい映像が流されている。しかしなぜ終戦から7年も経った1952年にこれがニュース映像として流されたのか。

 この年まで原爆の映像は長らく封印されていた。それがようやく解禁され、その動画映像が初めて一般の人の目に触れたのがこのニュース映像であった。これは原爆投下後間もなくその災害記録を残すためにニュース映画会社の日映新社が撮ったものである。原爆投下後、現地に撮影班を派遣し、原爆調査団に随行しながら、撮影を行っていた。しかしGHQから撮影中止の命令がくだる。撮影の続行を願いでたものの許可はなかなかおりなかった。そして最終的にその映像を全て米軍に納入すること、それらの映像はすべてあらゆる映像の断片に至るまで米軍が接収するという厳しい条件で、ようやく撮影の続行は許可された。こうして完成した『原子爆弾の効果』は1946年に米軍に納入された。しかし撮影に携わった同志数人が危険を犯してフィルムを手元に残し、占領終結まで地下に隠した。それが日本が独立を獲得した1952年にようやく公開された。これはそういう貴重な映像なのである。

 貴重な映像という意味でもう一つ重要な資料は、同じセクションに展示されている『アサヒグラフ』1952年8月6月号である。

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 表紙にはただひとこと縦書きで「原爆被害の初公開」と書かれているが、その内容は衝撃的である。 これは朝日新聞の二人のカメラマンが1945年8月と9月に撮った写真がはじめて公開されたものである。これらもプリントは没収されたものの占領期間中フィルムを保管しつづけていたものである。

 ちなみに、この内容についていは平成18年に広島平和記念資料館で開催された展覧会「宮武甫・松本榮一写真展ー被爆直後のヒロシマを撮る」のホームページに詳しいのでリンクをはっておくことにしたい。原爆被害の初公開写真もここでその一端を見ることができる。

 1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されたその日と同じ日付、原爆投下7年後のこの特集号で、多くの一般の日本人は原爆被害の凄惨な様子、その実態をリアルな実写の「映像」として、視覚として初めて目にすることになった。もちろんこの1952年まで原爆の惨状が伝えられていなかったわけではない。視覚情報としては1950年第3回日本アンデパンダン展に展示された丸木位里・俊夫妻の『原爆の図』(当時は「8月6日」と題されたという)が既に多くの人に衝撃を与え、強い反響を呼び作品は各地を巡回していた。これは原爆に関する情報公開がいまだ禁止されていた時期において画期的であった。とはいえ、写真や動画などのリアルな映像はまだ一般に広く公開することはできなかった。

 この「原爆の刻印」のセクションに展示されている作品は、1952年の朝日ニュースの動画と『アサヒグラフ』の写真以外は、土門拳と川田喜久治の原爆関連の写真作品である。ちなみに土門が広島の写真を撮りはじめたのは、原爆投下から12年も経った1957年のことであった。上記の1952年の実写映像公開によって広島の被害の真の姿を知った土門拳がようやく実際に広島の地を踏んだのは1957年のこと、そして翌1958年に著名な写真集『ヒロシマ』が出版される。原爆投下から10数年経っているにもかかわらず、原爆病院の患者たちを写した写真は衝撃的であまりにも生々しい現実がそこには映し出されている。一方、川田喜久治の写真『地図』シリーズは、土門の表現とは一見対極にあるかのように静かである。そこに写し出されているのは、被爆者の皮膚や原爆ドームの天上や壁に執拗に残り続ける「しみ」であるが、それは既に原爆の映像を何らかの形で目にした多くの人々にとって静かではあるがじわじわとその痛ましさを物語る写真である。

 これらの展示を見てまさに「原爆の刻印」を目に刻み付けたところで、次のセクションに移動する。「静物としての身体」と名づけられ、既によく知られた戦後の作品がそこには並んでいる。鶴岡政男の「重い手」や彫刻作品「転がっている首」、阿部展也の「埋葬2」など、不気味さと死を連想させずにはいられない作品が並ぶ。

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 ここでいう「静物」とは端的に「もの」のことであると考えてよいだろう。その表現の意味が、1の映像や写真を見ることによって、ただ作品だけを見るのとは違う意味を持って迫ってくる。つまりこれはその時代の人々が見ていたはずの光景をそこに再現することで、作品をもう一度新たに見直す試みであると言ってよい。こうした意図がこの展示にこめられていたことは、この展覧会にあわせて制作された『実験場1950s 論文集』に収められた論文の記述からも了解されよう。

 「静物としての身体」この言葉の意味を確認することから始めよう。「美術にぶるっ!ベストセレクション 日本近代美術の100年」第二部「実験場1950s」の企画者、鈴木勝雄と舛田倫広は、その第一章第二節に、このタイトルを付けた。「静物としての身体」。「静物」も「身体」も、絵画の扱うモチーフとしては、ごくありふれたものでありながら、両者が接続されるとき、そこにはたちまち不穏な空気がたちこめる。「静物」がフランス語で nature morte すなわち死せる自然であることを考えあわせるならば、ここで扱われるのは死体ということになるからである。1950年代美術の可能性を再考しようとする展示の始めに、私たちは死体について考えなければならない。いや、死体をいかに表すかについて考えなければならない。それを避けて、次には進めないということだ。(大谷省吾「静物としての身体、もしくはアンチ・ヒューマニズムについて」『実験場1950s 論文集』より)

 あるいは、この展覧会場に置かれていた無料配布のB4版のアジビラ新聞のような紙とデザインの「解説シート4種」にも「静物としての身体」というタイトルをいかに読み解くべきかということが次のように書かれていた。

 阿部展也の《埋葬》や鶴岡の彫刻作品《転がっている首》は、文字通り死体を表しているし、村岡三郎や毛利武士郎の彫刻作品もまた背中、背骨、頭部などといった人体の一部分を思わせる。(「解説シート」<2静物としての身体>より)

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実験場1950s 解説シート4種

 ここでの静物としての身体が、視覚映像としては、最初のセクションで見た原爆の映像とつながっていると考えられるとすれば、言語としては、この解説シートや論文集でも再三とりあげられている1954年の鶴岡政男の次のような当時の発言がその背景にあると言える。

   日本の絵というものは、全体に物を描かないと思うのだよ、物を・・・・・・。事を描いていると思うのだ。事は物でもって表現されなければならないのに、物を忘れて事を描こうとしている。(鶴岡政男「誌上座談会」『美術批評』誌、1953)

 鶴岡政男がここで述べた、「事」ではなく「物」を描くべきという発言が、映像と絵画と彫刻と写真を意図的に並べたこの展示方法によって、あらためて特別な意味をもって迫ってくることになる。

 同様の方法は、セクション5の「現場の磁力」でも力を発揮している。ここでは1955年から1957年にかけて起こったアメリカ軍の立川基地拡張に対する反対運動、いわゆる「砂川事件」を撮ったドキュメンタリー映画『流血の記録 砂川』(1956 監督・亀井文夫)が流されている。鑑賞者はそれを見ることによって、たとえば中村宏の有名な「ルポルタージュ」絵画作品『砂川五番』(1955)に、ジャンルの違いを超えた視覚イメージの共通性を読み取ることができるようになる。


冒頭に『流血の記録 砂川』予告編

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中村宏『砂川五番』

 つまりここでの展示はジャンル横断を意図したというよりも、実際の作品がジャンル横断的に同じ経験や同じ視覚映像に拠っていたことを示している。つまり中村宏のこの作品それ自体が同時代の映画の手法や映像の影響を受けていることを思わせる。実際これらの絵は「ルポルタージュ絵画」と呼ばれ同時代にメディアを通して発信された映像と不可分の関係にあった。

 この「実験場50s」の展示方法は、展覧会の一つの在り方として興味深いが、こうした展示が要請された理由のひとつとして、作品を観る鑑賞者の側が、もはやこうした視覚映像を共有していないということが挙げられるように思う。たとえば1955年のこの『砂川五番』の映像をリアルに同時代に見ることができた人、この時代の空気を体感していた世代の人は、当時10歳程度を想定するとしても1945年生まれ以前の世代ということになる。ましてや戦争をリアルに体験した世代は、2013年現在、割合として大きく減ってきているのではないだろうか。戦争体験といっても、戦前派、戦中派、いわゆる「少国民世代」そして純粋な戦後派では、体験もまた受けた教育さえも異なる。また性別や置かれた状況によってもその経験は異なるだろう。こうした違いを超えて、映像によってかろうじて共有されていたであろう戦争の「視覚イメージ」も既に共有されてはいない。それゆえ今回のような展示の在り方が意味を持つのは、当時人々が共有したであろう「視覚イメージ」を再現することで作品をあらためて見直すことにあるだろうし、また経験者の発言はそれぞれに貴重であるとしても、幅広い世代がさまざまなな立場からそれを共有し得なくなった現在にあっては、それを「『痛み』の表現ではなく、あくまで作品の構造の問題」(解説シートより)として検証することがこれまで以上に必要になってくると思われるのであり、その意味でこの展覧会はそうした視覚映像のアーカイヴ製作のひとつの方法を示しているようにも見えるのである。

 それは歴史社会学・小熊英二がその大著『民主と愛国』によって戦後の言説のアーカイヴを一人で作ってみせたように、ジャンルを超えた視覚映像のアーカイヴの必要性を考えさせてくれるものである。小熊はこの大著の副題である「戦後日本のナショナリズムと公共性」を検証し論じるに際して、当時の知識人や政治家や一般の人々の発言などから、膨大な数にのぼる引用を提示することで、その時代を浮かびあがらせていた。すなわち、それはその時代の資料にその時代を語らせるという手法であり、小熊の方法がそのようにして当時の「言説」を浮び上がらせる手法であったとするならば、今回の「実験場1950s」の場合も、近年、芸術として認知されてきた「写真」作品だけではなく、ドキュメンタリー映像、デザイン、漫画などを配置することによって、当時共有されていた「視覚イメージ」を甦らせ、そのことによって当時の絵画や彫刻をあたためて見なそうとする試みでもあったと思われるのである。

 小熊は『民主と愛国』のなかで、敗戦直後の1945ー1954年を「第一の戦後」、55年体制が出来上がった1955年以降1990年の冷戦終結までを「第二の戦後」と捉えていた。この区分をそのまま援用するならば、この展示は途中で二つに分かれることになるが、この区分は日本が安定期に入り高度成長に向かう時期といまだ貧しかったそれ以前ということであり、その違いは55年以前と以後で劃然と区別されるわけではなく、実際には55年を過ぎてから徐々に変容していったと考えられる。たとえば「第一の戦後」期の言説を語る際にしばしば用いられてきた「戦後民主主義」という言葉は1960年前後にはじめて現われた言葉であったという。つまり「民主主義」という言葉の持つ響きがその頃をはさんで大きく変容したということをその言葉の登場は意味していた。

 こうした意味の変容に対応するような視覚イメージの変容としてこの展覧会で提示されたのは、1950年代前半の「もの」と1955年代後半の「オブジェ」の関係であったとは言えないだろうか。この展覧会ではセクション2の「静物としての身体」に対して、最後のセクション10で「方法としてのオブジェ」というテーマで展示がなされている。「静物としての身体」に登場するアーティストたちが、主に1910年代から20年代前後生まれであるのに対して、「方法としてのオブジェ」では1934年生まれの池田満寿夫、1935年生まれの菊畑茂久馬、工藤哲巳、1936年生まれの荒川修作など終戦時まだ子供だった世代、戦争を間接的に体験した世代、60年代間近になって前面に躍り出てきたいわゆる少国民世代以降のアーティストが扱われている。現実に目の前にあった「静物としての身体」としての死体としての「もの」をキャンバスに描きだしたり、塊として彫刻作品にとどめる作品制作行為ではなく、実際の事物をキャンバスに張りつけたり、見た目に明らかに奇怪な物体を芸術作品として提示する、より即物的にしてより観念的な「オブジェ」としての作品が台頭してくる。それは「静物としての身体」において見出された寡黙にして不気味な「もの」とは既に異なっている。工藤哲巳が読売アンデパンダン展に出品した問題作のように、そこでは現実世界に生じてしまった亀裂を凝視しながらそれをなんとか視覚作品に留めようとする作業ではなく、日常空間や芸術という枠組を乗り越えようとしてこれから数十年にわたって繰り返される反体制的な反芸術的な試みが既にはじまっていたのである。

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工藤哲巳「X型基本体に於ける増殖性連鎖反応」

 かくして、この時代の変化、アプローチの違いを如実に示す映像作品が展示の最後に登場する。それは原爆を扱った映像作品である。ものとオブジェが異なるように、「原爆」というテーマをめぐって、この展覧会の最初と最後に対置された2つの映像が表現しているものは大きく異なる。冒頭の「朝日ニュース第363号『原爆犠牲第一号』」に対して最後に登場するのは細江英公の「へそと原爆」である。前者がドキュメンタリーであり、後者がフィクションであるという違いは重要だが、その違いとは別に、その表現の構えが既に大きく異なっている。


細江英公「へそと原爆」

 ここにあるのは、冒頭で見たような「静物としての身体」ではなく、既にわれわれがよく知っているオブジェとしての裸体である。そこにあるのは生々しすぎる現実を淡々と映すドキュメンタリーやルポルタージュではなく、永遠に終わりそうもない日常を打ち壊すかのように表現のなかで次第に過激になっていく「前衛」的な映像作品である。「原爆」を映像として流すことが許されなかった時代、それがようやく解禁された1952年、そのわずか8年後には「ステレオタイプ化した日常の厚い皮膜をはぎ取って、未知なる世界に出会うことは可能なのか」(「実験場50s」解説シート)と問いかけられるような時代が到来しつつあった。既に高度成長期が「厚い皮膜」で人々の日常感を覆いつつあり、その被膜の隙間から垣間見える恐怖を描くこと、それが当時台頭してきた戦争末期にまだ子供であった世代の表現であったのかもしれない。細江英公は自らを「間接的ヒロシマ体験者」と呼び、12歳の時、山形の疎開先で原爆のニュースを聞き、10万人の人が死んだというその情報に震えたという体験を語っている。それは子供時代だからこそ生々しい一方で子供時代だからこそどこか現実と遊離した、それでいて容易に消化し難い体験として深くその心に刻まれることになったのだろう。そしてそうした表現の在り方はその次の戦争を知らない世代によって更に静かに変容を遂げていくことになるだろうこの50年代における時代の空気の大きな変化をこの展覧会は映像作品と視覚芸術作品を並べることで鮮やかに表現してみせている。

 この展覧会が一個の独立した展覧会ではなく『美術にぶるっ』という展覧会のパッケージのなかに仕込まれていたのはなぜだったのだろうか。あるいはこの過激さはそうした仕込みによってこそ可能になったのだろうか。そうであるにせよ、そうでないにせよ、この展覧会は多くの人が知ることのなかった展覧会である。しかしその歴史的価値はあとからじわじわとにじむように浮び上がってくるのではないか、そういう予感がするのである。(つづく)